今回は、葦書房の経営者としての三原氏の実像についてご紹介することにいたします。合わせて、三原氏と三多との、出版にかける思いや姿勢の違いについても対比しながら、触れてみたいと思います。
(なお、アイキャッチ画像のデザインを変えました。)
1.遺産を食いつぶしたしただけの三原氏
前回は、三原さんが葦書房の代表に就任したものの、葦書房を閉鎖したいという債権者の意向を受けて、その行方が危うくなりかけていたところまで書きました。
三原氏の社長就任を唯一報道していなかった西日本新聞の、文化部のデスクに三原氏の社長就任を報道してほしいとわたしが依頼してしばらくして、同紙が初めてこの人事を報道しました。
西日本新聞のこの報道後、朝日新聞が二ノ坂氏の捏造文を掲載しました。しばらくして、文化人A氏による、三多には1歳の遺児がいるという捏造話が掲載され、葦書房と三多をめぐる捏造話が、あたかも事実であるかのような異様な雰囲気が辺りを覆い尽くしました
当時はネットはありませんでしたが、仮に当時、ネットが使えていても、天下の公器である新聞が、これほどの捏造話を堂々と掲載したことに対する衝撃が余りにも大きく、反論を書くことはできなかっただろうと思います。
唯一可能なことは、事態の動きを黙って眺めていることだけでした。
三原氏ご本人もマスコミの支援を受けて、華々しく葦書房の経営を続けていました。わたしは毎年1回、三原氏から決算報告を受けていたものの、当時は経理の知識もなく、決算書の見方も知りませんでしたので、ただ機械的に目を通すだけでした。
ただ、三原氏は、三多の経営は自費出版が多すぎて、売上げが伸びないのに印刷費だけが嵩んで経営を圧迫していたので、自費出版重視路線からの脱却を図ると繰り返し、経営方針を述べていました。
確かに、自費出版は低い利益率ながら確実に利益は出ますが、自費出版からベストセラーが生まれることは皆無に近いので、売上げを劇的に上げることはほぼ不可能です。しかも自費出版を出せば出すほど印刷費も嵩むので、三原氏の新方針は正しいようにも思えました。
しかし言うは易し。三原氏は、三多の残した遺産を食いつぶしただけだと言っても過言ではありません。
まず第一の遺産は、約1億2000万円の死亡保険金ですが、これは、郵便局を除く信金を含む十数もの金融機関に分散貯金されていました。これはわたしが後を継いで発見したものですが、十数行に分けるとは、預ける手間だけでも気が遠くなりそうです。
よくもこんなことを考えついたものだ唖然としました。実際に預け入れに行ったのは経理のSさんだと思いますが、考えついたのは三原さんでしょう。社長の指示なしには経理が勝手に預金するはずはないからです。
小分けに分散されていますので、1億2000万円の保険金が三原さんの手許に残っていたとは、どこの金融機関も知りませんね。知っているのは三原さんと経理のSさんだけ。
当初、閉鎖を望んでいた金融機関も、存続が決定して経営が継続されることが決まると、負債の一括返済は求めなかったようで、負債を抱えたまま三原氏の経営が続きました。つまり三原氏は、1億2000万円の保険金をほぼそのまま運転資金として使うことができたということです。
分散小分けされた預金は徐々に引き出されて、ついには全て空になっていましたが、出金は全て帳簿に記帳されていましたので、個人的に着服されたという形跡はありませんでした。
第二の遺産は、三多の死後に出版された『水俣病事件資料集』です。これはすでにご紹介しましたように、三多存命中に、ほぼ印刷可能な状態まで作業が進んでいましたが、印刷所への支払いが滞り、印刷所の方から作業がストップされていたものです。
この作業ストップは何年もの間続いていましたが、三多は入院中に、この『資料集』の印刷に向けた作業の開始を決定しました。(参照:「水俣病事件資料集」と久本三多)
それから2年後、三原氏の名前で本書は刊行されましたが、大反響を呼び、毎日出版文化賞を受賞。上下セットで本体価格は6万3000円と非常な高額にもかかわらず、かなり売れました。800部ぐらいは売れたはずです。
取次卸の掛け率が73%ですので、正味は約3680万円です。印刷費や著者印税等を差し引くと、正味の収益は3000万円は切ると思いますが、三原さんにとっては、労せずして手にした大きな売上げでした。
第三の遺産は、渡辺京二氏の著書の発行です。渡辺氏は、葦書房発足当時からお付き合いのある著者であり、葦書房の出版活動を支える精神的支柱のお一人でしたが、渡辺氏の著書が全国的なブームを巻き起こしたのは、三多の死後のことでした。
ブームの直接のきっかけになったのは、1998年に出版された『逝きし世の面影』でしたが、本書も三多が出版を予定したものでした。昔、葦書房は渡辺京二氏を編集長に、渡辺氏の居住地である熊本を拠点に「暗河(くらごう)」という雑誌を発行していました。
葦書房は資金は提供するが、口出しは一切せずに渡辺氏に全てお任せするというスタンスでした。三多はそれほど渡辺氏に全幅の信頼を置いていたわけですが、その後、葦書房の経営にも余裕がなくなり、雑誌は廃刊になりました。
その廃刊号だったか、廃刊近い号だったかに渡辺氏は、『逝きし世の面影』の元になる作品を発表されていました。三多はこの作品を核に据えた著書を出したいと、渡辺氏に続編の執筆をかねがね働きかけていました。三多による渡辺氏への働きかけは、入院の前年まで続けられていましたが、当人存命中にはその望みは実現されませんでした。
三多の死から4年後、日本中に大反響を呼んだ『水俣病事件資料集』の出版から2年後に、『逝きし世の面影』が出版されました。こちらも和辻哲郎賞と地方出版功労賞を受賞、日本の読書界に渡辺京二ブームがわき起こりました。
本書も本体価格は4200円と高額ですが、最初の5000部は完売。重大な勘違いをしていました。『逝きし世の面影』は、三原時代に9刷りまで出ていました。ただし9刷り分は、わたしが引き継いだ時にはかなり売れ残っておりました。
ということは、8刷りまではほぼ完売していることになります。増刷は各5000部ぐらいかと思いますので、『逝きし世の面影』では、『水俣病事件資料集』の何倍もの収益を上げたことになります。
5000部ごとに計算しますと、正味掛け率が73%ですので、正味売上げは1533万円。印刷費と印税を差し引くと約1000万円。8刷り分合計で1億円!!!。9刷り分は半分ぐらいは売れていたと思いますので、純利益約500万円がさらに加わります。全て経費を除いた純利益ですよ。この巨額の売上げを、三原さんは労せずして手にしたわけです。(参照:渡辺京二特集)
のみならず、この大物出版物を立て続けに出したことで、出版界やマスコミ界での三原氏の盛名は留まるところを知らず高まる一方でした。葦書房の中興の祖とまで評価する声までありました。お金には換算しがたいこの名誉ある評価は、三原氏にとっては望外の資産になったはずです。
三原氏が捏造話を書いても、これだけの人物ですので、捏造やウソを言うことなどありえないと誰もが思うはず。この盛名が及ぼす効果は無限大です。
しかも遺産はまだまだあります。第四の遺産は、創業以来超ロングセラーをつづけていたガイドブック関係です。取り立てて話題にはならない地味な本ですが、静かに葦書房の経営を支えてくれていました。三原氏にとっては、これも労せずして売上げを維持してくれる貴重な遺産でした。
加えて第五の遺産ですが、こちらは郷土本です。こちらも根強い人気で静かにロングセラーを続けていました。
これらの遺産のお陰で三原氏は、ある時期まではその新方針どおり、自費出版を縮小し、企画出版を中心にした経営を続けることができていたように思います。
しかし経営を引き継ぎ、その実態を知ると、三原氏はただひたすら三多の残した遺産を食いつぶしただけであったことが判明しました。
三多死亡時の葦書房の負債は6000万円余りでしたが、わたしが引き継いだ時にはその約2倍もの負債が残されていました。さらに驚いたのは、企画出版を主軸に据えたからなのか、三原氏の7年間で著者印税の未払い分が三多死亡時の7~8倍にまで増えていたことです。
三原時代で印税もきちんと払えるほどに売れた企画出版は、三多が残した企画出版以外にはほとんどなかったのではないかとさえ思われます。
確かに三多の時代には自費出版が多かったのかもしれませんが、中に入って分かったことは、三多が手がけた自費出版は非常に上質なものが多かったということです。三多がそれだけ、力のある多くの著者から信頼を得ていた証しだと思います。
2. 「写真万葉録・筑豊」にかけた思い
三多にとっては、最後の大物企画出版となったのは、非常に長期に渡って断続的に出版が続いた『夢野久作著作集』を除けば、上野英信氏監修になる『写真万葉録・筑豊』全10巻です。1984年から1986年の年末にかけて出版されました。
炭鉱閉山に伴い、南米各地に移民として渡った元炭鉱マンとその家族を追って、上野さんは南米にまで取材に行かれたのですが、その時に撮りためた写真と元炭鉱マンから寄せられた写真を基に編まれた写真集です。
南米にまで取材に行かれた本書は、上野さんにとっては最後の大仕事となった写真集でしたが、三多にとっても、社運をかけて取り組んだ大仕事でした。というよりも、倒産覚悟で進めた仕事でした。
本書の出版が始まってしばらくした頃のことです。葦書房が倒産するという噂がかなり拡がっていると、三多から聞かされました。そんなに厳しいのかと思いながら聞いていましたが、写真集10巻ともなると、やはりただごとではないのでしょう。
しかし三多は、たとえ倒産してもこの写真集だけは絶対に出す!と、やや怒りをこめた口調で語っていましたが、その思いはやがて、十二分に報われることになりました。
マスコミでも大々的に報道していただいたこともあり、10巻セットの写真集がかなりの勢いで売れ始めました。元炭鉱マンやそのご家族の方々が懐かしいといって買ってくださったのも、大変な力になりました。もちろん、各巻それぞれにも売れました。
倒産したら、いくら本を出したくても物理的に出せなくなるわけですが、倒産しても出版するという、経営者としては問題ありな、いささか常軌を逸した出版にかける三多の思いの強さが、他の出版社にはない葦書房固有の歴史を形作ってきたのだと思います。
この写真集の出版が始まったある頃、わたしにとっては、思いがけない方との出会いがありました。三多から、上野さんがわたしに会いたいって言ってるからと言われて、初めてご自宅である筑豊文庫に伺うことになりました。
わたしは上野さんに直接お会いしたことはありませんでしたが、かの有名な筑豊文庫に行けるんだとわくわくドキドキしながらお伺いしました。長屋を連結して作られたというご自宅は奥行きのある作りで、各部屋に、編集渦中の「写真万葉録・筑豊」の原稿が並んでいました。
入るなりすぐに晴子夫人に迎えられましたが、奥様にお会いするのも初めてでした。晴子夫人は一目見るなり育ちの良さが瞬時に伝わるような雰囲気の方でしたが、口を開くと、その印象ががらりと変わるほどのおしゃべり好きであることには、さらに驚きました。
晴子夫人は、しゃべり出したら止まらないという快活な方ですが、ご主人の上野さんのこともぼんぼんおしゃべり。別部屋とはいえ上野さんもご在宅です。しかし奥様のおしゃべりは止まりません。そこまで言っていいんですかと心配になるぐらいでしたが、奥様流の、屈折した形でのおのろけだったのかもしれないとも思われます。
この初の出会いから数年後、上野さんは写真集刊行を終えた後、間もなくお亡くなりになりました。九大病院にお見舞いにお伺いした折は、非常に明るい笑顔でお話しなさっていましたが、それから間もなくの訃報。奥様も数年後、上野さんの後を追うようにして旅立たれてしまいました。
今思い返しても寂寥感いや増すますばかりですが、『写真万葉録・筑豊』10巻が墓碑銘となりました。倒産覚悟で出版を敢行した三多にとっても、筑豊を送る最後の大仕事となりました。
葦書房の仕事を少し振り返ってみただけでも、ある意味当然ですが、三原さんには、三多のような、出版に命をもかけて悔いなしというような、いささか狂気じみた思いは無縁だったと思います。
しかし三原さんは、三多が残した遺産を蕩尽する中で、葦書房の中興の祖とまで称えられるに至り、その煽りを受けて、三原さんの最盛期には、三多の評価が貶められるような雰囲気まで漂っていました。
しかし繰り返しますが、三原さんは三多の遺産を食いつぶしただけでした。
わたしが引き継いだ頃は、売上げが500万円ぐらいにまで下がっていました。ここから、30~40%ぐらいの返品が引かれますので、正味の売上げは、350~300万円ぐらいです。社員の給与もロクに払えない、乱発している手形も不渡りは必至。そんな危機的な経営状況でしたが、この劣勢を挽回するような企画は皆無です。早晩、葦書房は三原氏の代で倒産するしかないような状況に立ち至っていました。
渡辺京二氏の大ブームが起こり、9刷りも増刷した『逝きし世の面影』出版から、まだ3年ぐらいしか経っていない時期です。
そのタイミングでわたしが葦書房を引き継ぐことになったのですが、葦書房の経営には一切関わりたくないと思っていたにもかかわらず、なぜ引き継ぐことになったのか。その事情についてお話しいたします。