ポート

サイト名を「葦の葉ブログ」から「ポート」に変えました。

MENU

事実は小説より奇なり・後編-3

本号「後編-3」では、捏造情報流布のための三多の「追悼録」の配布・拡散をめぐるお話しと、お金にまつわるお話の特集です。

1.広域配布された追悼録

前号「事実は小説より奇なり・後編-2」でご紹介しましたように、三多の死後、恐るべき捏造話を収録した追悼録が刊行されましたが、市販品ではありませんので書店には置いていません。

しかし、この捏造話を拡散するために、葬儀に参列いただいた方々をはじめ、かなり広範囲に配られたはずです。葬儀には、マスコミや出版業界関係者も多数参列いただいておりましたので、二ノ坂氏の新聞寄稿文だけでは不足している、捏造話の補強版としての追悼録が、各方面に届けられたものと思われます。

二ノ坂、三原両氏以外の、捏造とは全く関係のない、心からの追悼の思いをお寄せいただいた方々にはまことに申し訳ない、失礼きわまりない表現になっておりますが、ご容赦いただきたいと思います。

追悼録の刊行からしばらく経った頃、ある飲食店の店頭に追悼録が置かれて、お客に配布しているとの噂が耳に入りました。その飲食店とは、「中編」でご紹介しました、川浪病院に移ってから初めて、三多が入院している病院・病室に出入りし始めたご店主が経営しているお店です。

わたしは、葦書房から送られてきたこの追悼録の、二ノ坂、三原両氏の文章に目を通した際には、余りの捏造ぶりに、頭に血が上って正気ではおれないほどの衝撃を受けました。

そのおぞましい追悼録を、わざわざ配布する人物がいたとは!新たな衝撃ですが、自分で確かめたわけではありません。あのご店主は、ほんとうにそんなえげつないことをする人間だったのか。確かめずにはおれませんでした。

そこで何年ぶりかでご店主のお店を尋ねました。何か食事をしながらでも、追悼録がどんな風に配布されているのかを確かめるつもりだったのですが、全くの手間いらずで確認できました。

中に入らずともすぐに目につき、手に取れるほどの入り口近くのド真ん中に、山積みされていました。まさに店頭そのもの。しかも、ド真ん中に。見本用に表紙が見えるように立てて置かれていましたので、外から覗いただけでは店内の様子は分からぬものの、この追悼録だけはいやでも目に飛びこんできます。この追悼録が視界の全てを覆っているという感じでした。

このご店主がなぜ追悼録の配布、拡散に手を貸しているのか、その理由は分かりませんが、二ノ坂氏が、三多の臨終には大勢の「友人」も立ち会ったと書いていた、その友人の一人にこのご店主も含まれていました。

三多が健康な頃にはご店主とは疎遠な関係でしたが、川浪病院に移ってからは、ご店主の姿はしばしば目にするようになったことは、すでに「中編」で述べたとおりです。

追悼録は市販していませんので、手に入れたい人はこのお店に来ると簡単に入手できますので、集客にも役立ったはずですが、単に店の売り上げ増だけを狙って追悼録を店頭に並べていたとは思えません。

三多が川浪病院に転院してから、突如としてご店主が出入りし始めたことからも明らかなように、二ノ坂氏の捏造話と密接に関連した動きであることは明らかです。しかし、病院内外での連携した動きを、それとして明確に認識したのはこの原稿を書いているさ中のことです。

ご店主のお店の店頭に置かれた追悼録は、葦書房から提供されたものなのかどうかは不明。ご店主が葦書房に対して、追悼録を店で配布したいと申し出て、まとまった数の追悼録が提供されたのか。あるいは、この追悼録の編者「久本三多追悼集刊行会」のメンバーには、ご店主とも親しい方が入っていましたので、特別の計らいで配本されたのか。その送本ルートは不明ながらも、市販されていない追悼録は、人知れず拡散されていたのです。

しかし、追悼録の拡散は福岡市内のこのお店以外にも拡がっていたらしいことが、十数年経って新たに分かりました。長女の婿からこの追悼録を読んだことを知らされたからです。

婿は関東生まれの関東育ち。大学も勤務先も関東です。長女は追悼録を持っていませんし、読んでもいません。長女は、当時のことは話題にするのも嫌がっていたほどですので、婿は独自のルートで手に入れたらしいことは明らかです。

追悼録は関東にまで拡散していたのかと、聞いた直後、わたしはものすごい衝撃を受けました。しかもよりによって、長女のお婿さんが読んだとは。余りのショックに言葉が出ませんでした。当時はまだ、わたしは、三多の死をめぐる異様な出来事については、冷静に振り返ることはできずにおりましたので、この件については一言も触れませんでした。

ただ、追悼録と三多の死をめぐる異様な出来事については、死ぬ前には全貌を書き残しておくことを強く決意しました。

何時が死ぬ前になるのは分からぬまま書くきっかけもなく、今日までさらに20年近くが経ってしまいましたが、思いがけずも、書く機会に遭遇しました。元気なうちにこの機会に出会えたことには神様に感謝したい気持ちです。

とはいえ、書く機会に遭遇したということは、捏造話が狙う工作が今なお続いていることを意味しており、単純に喜ぶわけにはいかいないことも事実です。むしろ、こちらの事実の方が重く迫ってきます。

捏造をする連中にとっては、事実はどうでもいいわけです。捏造した方が勝ちというのが彼らの論理ですが、三原さんは、三多の意識がはっきりしている間は、三多にとって帰りたい場所は、わたしと子どもたちが暮らす皿山の自宅以外にはないことは、当人からも伝えられており、重々承知していたはずです。

それもあってか三原さんは、三多の意識がはっきりしている間は、わたしを無視して何かを決めるということはありませんでした。

三多は亡くなる10ヶ月ほど前に日本金融公庫から借り入れていたのですが、その借入証書にある家族欄には、わたしと子どもたちの名前が書かれていました。住所は三多が会社の近くで借りていたアパートの住所になっていましが、あの狭い2Kのアパートに家族5人が暮らしていることになっていました。

わたしは、三多の死(1994年6月8日)から7年後の2001年9月末に、葦書房を引き継ぎましたが、この借入証書を目にした時は、三多はここまで思っていたのかと、驚きというよりも衝撃を受けました。

三原さんもこの借用者は目にしていたはずです。三原さんが引き継いだ頃は、この借入金の返済が始まってまだ間がない頃ですし、三原さんが保証人になっていましたので、見ないはずはありません。

2.三原氏のお金対策

また、三多は離婚後も以前と変わらぬ額の生活費を入れてくれていました。わたしと子どもたちが住んでいた皿山の家は葦書房の所有ですので、三多はその家賃も払っていました。三原さんは、当然のことながら、このことも承知していました。

三多が毎月わたしの口座に振り込んでくれる生活費は、経理のSさんが給料日に振り込んでくれていたのですが、三多が亡くなった6月は振り込みがありませんでしたので、給与がどうなっているのか三原さんに問い合わせたところ、6月(8日に死去)に亡くなっているので三多の給与は支給していない。当然ではないかとも言われました。

それから7年後の2001年9月末に葦書房を引き継いだ折り、帳簿を調べたところ、三多の6月分の給与は満額支給されていました。預り金として計上されていましたが、三多が借りていたアパートの家賃や水道光熱費などを支払った(自動振り込み)あとの残金は、預り金として帳簿には計上されたままでしたが、現金はどこにもありませんでした。

わたしはこの事実を知って、三原さんはここまで汚い人だったのかと心底驚きました。追悼録などで、三原さんはかなりえげつない人であることには気がつきましたが、お金にもここまで汚い人だったのかという驚きです。

しかし、類似例は他にもありました。会社がかけていた死亡保険金は、当然のことながら会社が受取人になっていますが、特約でついていた入院給付金は三多個人に支給されました。入院中に1回、100万円余りが支給されましたが、後の2回は三多の死後保険会社か支払われました。

この2回の240万円余りの入院給付金は、預り金として帳簿には残っていましたが、現金はありません。保険金はもともと会社がかけていましたので、当人が亡くなった後に支給された入院給付金は会社のものになっても仕方がないかと思いましたが、経理上の処理としてはどうなのか。経理の素人には分かりません。

しかし、類似例はまだまだ続きます。

三多が亡くなってから3ヶ月ほど経った頃、子どもたち3人を受取人として、慰労金を含む退職金が支給されました。一般のサラーリーマンよりはかなり多い額ではありましたが、三多には800万円ほどの未精算金があるとのことで、退職金からその分が差し引かれていました。

子どもたちに全額を支給しても税金で取られるだけだから、帳簿上の処理のため800万円余りを差し引くとの説明でした。三多の時代からお世話になっていた、税理士さんの指導も受けた処理だとのことでした。

三多はそんな大金を未精算のままにしていたのかと驚きましたが、精算はやむをえません。しかも全額もらっても税金で取られるのなら、精算に回す方がよほど有効な使い方です。了解して処理をお願いしました。

それからかなり経ってからですが、こうしたケースの税金について調べてところ、3人の子どもたちが受け取った場合は額が3等分されるので一人当たりの額は低くなり、課税の対象にはならないことが分かりました。

三原さんの話はウソだったのか。元新聞記者が調べればすぐにも分かるようなウソをつくのかと驚きました。しかし、三多が残した会社への負債である未精算金は、遺族としては支払わざるをえないと思い、そのままにしていました。

その後、葦書房を引き継いだわけですが、帳簿を調べたところ、確かに出張旅費などの仮払金などが未精算金として、長い年月にわたって蓄積されていました。もっとも額の大きい未精算金は、葦書房が事務所として購入予定していたマンションの手付金でした。

葦書房が創業以来借りていた、福岡市有の保護会館という非常に古い建物が取り壊しになり、跡地にマンションが建つことになっていたのですが、その一室を事務所として購入することになっていました。

しかし、重たい本の出し入れをする出版社にとっては、マンションは使いにくい。この当然すぎる事実に気がついてマンション購入はキャンセルしました。購入契約書も残っていましたが、買い主は三多ではなく、葦書房になっていました。キャンセルした場合は手付け金は返ってきませんが、判断ミスをした社長の責任とみなされたのか、損金処理もされず、その死後まで残っていたわけです。

このマンションはある方に譲ったと聞いていましたが、その際、手付金分は差し引いて譲ったのかもしれません。そうなると、経理処理はちょっと複雑になるのかもしれず、そのままズルズル放置されてきたのかもしれません。

いずれにせよ、額は大きいとはいえ、全額仕事で使ったお金です。三原さんは、未精算金の中身を調べずに、全て遺族に精算を要求。その結果、帳簿に残っていた三多の未精算金(未収金)はゼロになりました。

しかし当然のことながら、帳簿には、三多に支給された退職金は800万円余を差し引く前の額ですので、800万余の現金は所属先のないままどこかに存在しているはずですが、もちろん、現金はどこにもありません。

わたしが引き継いだ後も同じ税理士さんのお世話になりましたが、税理士さんも三原さんの判断を支持したと思い込んでいましたので、この件についてお尋ねしたことはありませんでした。

しかし冷静に考えると、税理士さんが税法上の明らかな間違いを支持するはずはなく、おそらく三原さんは、税理士さんの名前を勝手に使ったのだと思います。

この退職金が支払われる前にも、類似例がありました。三多の死後、しばらくして、三原氏から、三多がかなりの額の個人的な借金を残しているとのことを知らされました。びっくり仰天しましたが、三多の貯金から支払いたいので了解してほしいとの申し入れでした。

その貯金とは、当時葦書房では、三多も含めて社員全員が財形貯蓄という天引き貯金をしていたのですが、その貯蓄を充てたいとのことでした。それだけでは足らないので、不足分は会社が負担するとのことでした。

わたしは三原さんの、不足分を会社が負担してまで三多の借金を清算してくれるとの話に感謝して、印鑑なども預けました。

それからしばらくして、三原さんから借金は全部返しました。あなたからも借りていたので、あなたにも返しますと言って、まとまったお金を手渡されました。ここでもびっくり仰天。これはいったいどういうことなのか、どういうお金なのか、全く分からぬまま、何かもやもやしたものが残りました。

三多の通帳も印鑑もそのままこちらには戻されていませんが、通帳は空になっているらしいので、もういいか、と思っていました。

しかし三多の個人的な借金というのは、三多が個人的に借りたお金を会社の運転資金に回していたものであったことが、わたしが葦書房を引き継いで数年後、色々調べている中で判明しました。

そういえばかなり昔、わたしは三多にお金を渡したことがありましたが、返してもらうお金だとは夢にも思っておらず、完全に忘れていました。しかし、三多自筆の借入金リストのようなものがあって、その中にわたしの名前もありました。

三原さんはこのリストを見て、借金返済をしたようですが、誰がどう見ても、会社で使うための借金であることは一目瞭然でした。本来ならば、会社が返済すべき筋の借金ですが、三原さんは、亡くなった三多に支払わせたわけです。

遺族としては不当だと訴えることもできるかと思いましたが、三原さんが個人的に着服したわけでもないので、法人として遺族に弁済することになったとしても、法人の代表になっている自分で自分に弁済することになるのだろうと思い、訴訟を起こすことは考えもしませんでした。

ただ、預金者が死亡した場合は、たとえ遺族であっても預金を下ろすことはできないということをこの頃初めて知ったばかりでした。三原さんから借金返済に充てると言われた頃は、そうした知識はゼロでした。

経営を引き継いだものの、膨大な借金返済に窮する毎日でしたので、この新しい知識をフル活用して、遺族でもない第三者に預金引き出しを許可した銀行の責任は問えないかと思い、知り合いの司法書士さんに、有能な弁護士さんを紹介してもらうつもりで相談しました。

1000万円近く残っていた三多の預金は、経理のSさんが全額を下ろして、解約していることは証拠としても残っていました。三多の死はマスコミで大々的に報道されましたし、預金先の福岡銀行からも葬儀には出席いただいた上に、弔電までいただいていましたので、本人が亡くなったことは重々承知していたことは明白です。

いくら葦書房の社長であっても、会社の預金ではなく個人の預金です。経理のSさんは、葦書房の預金、現金全てを管理してきたとはいえ、三多個人の預金を他人である経理のSさんが簡単に引き出せるのかといえば、常識的に考えてもありえませんね。しかし福銀は、このありえぬことをしていたわけです。

司法書士さんも、銀行の非は弁明の余地のないほど明らかなので、裁判せずとも銀行は和解に応じるはずだと言って、自分が和解協議を進めると言われました。裁判になると、金額からして司法書士には担当できませんが、和解協議なら担当できるので、そんな方針を示されたのかもしれません。

と思っていましたが、先ほど調べたところ、司法書士は裁判でも仲裁でも、和解でも何であれ、紛争解決に関与できるのは140万円以下だとのことを知って、ものすごいショックを受けています。

ということは、この司法書士は、1000万円の損害額のうち、140万円だけの返還を要求したのでしょうか。そういえば、司法書士は和解調書だか、仲裁証書だかは、依頼主であるわたしには見せませんでした。知り合いの司法書士さんでしたので、何一つ疑わず、言われるままに必要な証拠なども渡しました。

しかし和解協議では、福銀の弁護士は言下に和解を拒否し、提訴してもらってもいいとまで言われたにもかかわらず、司法書士は一言の反論はもとより、一言の発言すらないまま、和解協議は終了。

事前に司法書士には10万円の報酬を払い済みです。ご本人はもう現役引退されているかもしれませんが、目抜き通りにある中央区某所に事務所はありました。司法書士が依頼人を騙すのですか。怒り心頭!!!しかもネットで調べたところ、報酬も司法書士の場合は3~5万円くらいらしいですが、10万円も取られました。一度目にしたら忘れられない珍しい名前ですが、公開まではせずにおきます。

裁判をしていたら、司法書士の工作もバレていたかもしれませんが、会社の借金返済で窮していた中で工面した10万円が、1銭の返りもなくドブに捨てたような状態になったので、新たに弁護士に依頼する余裕は全くありませんでした。

それに、仮に預金から不正に引き出されたとはいえ、その中からわたしもお金を受け取っているので、銀行の非だけを責めることはできないかもしれないとも考えました。

という想定外の新事実にまで遭遇しましたが、事の発端は三原さんにあるわけです。

三多の死亡保険金から退職金を引いた残りは、1億円2000万円ほどありましたが、それに加えて、様々な口実をつけてさらに手にする資金を加えていたわけです。三原さんは、ここまで悪どい人間だったのかと驚くしかありません。

しかし三原さん以外に後を託せる人はいませんでした。今もそう思います。三多も当初はそう考えていたと思いますが、母や長兄までもが利用される事態は全く想定していなかったはず。しかも長兄が葦書房の後を継ぎたいと考えていたとは、全くの想定外。事態がより複雑になりました。

実は、三原さんは三多の存命中に、勝手に代表取締役就任の登記を済ませていました。三多の死後、西日本新聞を除く各紙は、死去後に開いた社員総会(株式会社のでの株主総会)決議を経て三原さんが代表に就任したことを報道しました。

もちろん、これは事実ではありません。三多の死去前にご本人が勝手に就任登録していたのですが、社員総会は開かれていません。有限会社の社員は株式会社の株主ですが、葦書房の全株を継承した、社員である3人の子どもたちには何の知らせもありませんでした。

三原さんの代表就任には反対していませんのでそれでもいいのですが、報道しない西日本新聞の文化部のデスクになぜ報道しないのか尋ねたところ、上から止められているからとのことでした。わたしは、誰か他の人が社長になっても困るので、西日本新聞でもなるべき早く報道して欲しいと頼みました。

西日本新聞が三原さんの社長就任を報道しなかったのは、三原さんが信用できないからなのかと思いましたが、もっと重大な事情がありました。大口債権者たちが葦書房の存続に反対していることが判明しました。おそらく西日本新聞はこの動きをキャッチして、報道を控えていたのだと思います。

死亡保険金が1億2000万円ほど残っているとはいえ、三多亡き後の葦書房の行方はとても明るいものとは思えません。大口債権者である銀行や印刷所が、資金のある今精算したいと考えたとしても当然です。

一方、三原さんはやる気満々でしたので、かなり交渉を続けたらしい。その際もっとも力になるのは、お金です。

実は、わたしは個人的にも三多に死亡保険金をかけていました。子どもが生まれてから数年後に入ったものですが、離婚後もずっとかけていました。しかし、三多の死の前後の頃から始まった異様な動きの中で、この保険金が無事もらえるのか、ぼんやりとした不安を感じていました。

そんな中、偶々葦書房に出向いた折に、経理のSさんにこの個人保険金のことを伝えました。保険会社も葦書房が入っていたのと同じ会社だったこともあり、一緒に請求しましょうかとの提案を受けましたので、保険証書など必要な書類を全て預けました。

保険金が振り込まれるまで3ヶ月余りかかりましたが、この間、三原さんはこの個人保険金も葦書房の資金のようにして債権者たちに説明をしたらしい。この保険金が、葦書房が閉鎖されずにすんだことにいくばくかの貢献ができたのであれば、想定外のお役目も果たしたことになります。

6月中に完結させる予定にしていましたが、一月ほど延びそうです。