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事実は小説よりも奇なり 中編

事実は小説よりも奇なり 前編の続きを、後編として公開する予定にしていましたが、余りにも長くなりすぎますので、今回は中編とし、次回に後編・完結といたします。合わせて、統一地方選の結果が映す、日本の現在についても一言、冒頭に記しました。

1.維新の倍増とネット妨害

数日前、サイトが表示されない障害が発生していることに気がつきました。一時的なものだったと思いますが、今では正常に戻っています。

しかし、WEBの罠、検索の罠でご紹介しました、世界規模でのサイトの繋がり具合を調べる「DNSチェックサイト」DNS Propagation Checkerで久々に調べたところ、接続妨害がかなり増えていました。しかも日本でも接続不可が発生。ブラウザによっても接続可、不可の違いが出ており、DNSサーバーの悪用をも含む、この種の接続(閲覧)妨害には、個人では対応不能です。

そもそもこの種の閲覧妨害を禁止する法律は世界中どこにも存在しませんし、監視、監督する機関も存在しません。

ICANNというドメインを管理する国際機関はありますが、民間に委託しているサーバー管理運営は公正になされていることが大前提になっており、不正の存在そのものは前提されていませんので、下請け、孫請け、ひ孫請け等を含めた、委託を受けた民間事業者の「善意」に委ねられています。

民間のサーバー管理会社で不正が行われうることなど、誰も考えたこともないという楽園思考が最大の問題だと思いますが、わたしのようなど素人がいくら問題点を指摘しても誰も見向きもしてくれません。専門家が動かないかぎり、ネット空間の見えざる無法状態は改善されないでしょうね。

ただ、DNSチェックを頻繁に行っていると、その時だけかもしれませんが、接続妨害も減少するという結果も確認していますので、ささやかに自衛するしかなさそうです。

しかし、投票を目前にして岸田総理と統一地方選を公開した後、DNSサーバーやブラウザを使った閲覧ブロックがこれほど拡がっていようとは想像もしていませんでした。

わたしのサイトに閲覧妨害があってもなくても、大勢にはさしたる影響はないとは思いますが、維新が倍増という結果にはやはり衝撃を受けています。増えるだろうとは予測していましたが、倍増とは。

この統一地方選の結果が象徴する現在の日本を、タレントのラサール石井氏が「独裁カルト国家化する日本 」と評しています。これほど的確に現下の日本を言い当てた人は他にはいないはず。

独裁カルト国家化する日本 それを後押しする元凶がテレビ局…というあり得ない構図(ラサール石井)
日刊ゲンダイDIGITAL 2023-4-13

日本のマスコミは維新の悪政についてはほとんど報道しないとわたしも指摘しておりますが、悪政を報道しないどころか、維新のカルト宗教化に加担し、有権者を盲目的に維新信者に仕立てていることを石井氏の記事で知ったところです。

退職金ゼロと言いながら、給与を上げて実質的には退職金よりも収入を増やしたという松井市長の詐欺的手法や、万博の次はカジノという、公的資金を投入した巨大土木工事とギャンブル依存症の犠牲者を生み出しながら金儲けをする以外には、まともな経済政策を知らないという無能ぶりや、公的病院の廃止や縮小、保健所の廃止などを進め、コロナ死者数日本一を記録し続けたという人命無視の悪政の数々も、維新教祖様の御意のままにと、無批判に受け入れてしまうほどに有権者の洗脳に大成功したわけです。

なお、維新の悪政についてはネットで調べても出てきませんね。唯一見つかったのが、以下のしんぶん赤旗の記事でした。

シリーズ 維新の会 その実像は
大阪で何をやってきたか 2022年2月13日

1,2年前までは、ネット上にはもっと多様な維新批判記事も出ていましたが、ネットでも報道規制が強まっているみたいです。だとしたら、恐ろしい。維新のマスコミコントロールは、公共事業配分という、税金を使ったものなので、前例のない悪質さです。

ところが不思議なことに、選挙後すぐに、岸田政権は大阪のカジノ誘致を決定し、地方選で大躍進した維新の会に巨大な花を持たせました。ひょっとして岸田総理は、カジノ決定と引き替えに、和歌山補選の勝利は自民党に譲れという裏取引きでもしたのでしょうか。タイミングからしても、そんな疑惑を招きかねない状況ですが、そうであるならば、国民を無視どころか、国民をバカにした決定ですね。

党利党略で経済政策が決定される日本。ジリ貧化するのも当然ですね。

カジノ建設には1兆円以上もの民間からの投資があることが維新の自慢になっているらしいですが、アメリカのカジノ企業はそのうちの2000億円余りを出資するだけで、残りは日本企業が出資するとのこと。しかも会場となる夢州の土壌汚染や液状化対策では、800億円近い税金が投入されるという。上記の「赤旗」に出ていました。

しかしこれほどの悪政が行われていても、マスコミがほとんど報道しない上に、維新教信者と化した有権者の目には、悪政も悪政とは映らないらしい。日本の未来はますます暗い。

ところで、昨日(4/15)、文章は完成、アイキャッチ画像を作成して今日公開する予定にしていましたが、朝刊に岸田首相が和歌山で補選の選挙演説中に、爆発物で襲われたとの記事が目に飛び込んできました。幸い岸田総理は無事だったそうですが、安倍元総理襲撃事件に続く選挙演説中を狙った暴挙。

しかし、仮に模倣犯だとしても、山上容疑者と同列に論ずべきではないと思います。山上事件の場合は、統一教会がこの襲撃事件の全トリガー、引き金そのものであること。しかも長年に渡って、日本政府がこの犯罪集団を放置してきたどころか、保護してきたという、反国民的な犯罪加担を続けてきたことが、山上容疑者を私的報復=リンチに向かわせたわけですから、この事件の全責任は岸田政権を含む歴代政権が担うべき、国家犯罪に当たるからです。

しかも襲撃事件の実相からは、安倍元総理を死に至らしめたのは山上容疑者の手製銃ではなく、別の犯罪者によってなされた可能性が非常に高いことが指摘されています。この問題を正面から取り上げているのは「週刊文春」ぐらいかと思いますが、岸田政権は捜査を妨害せずに真相を明らかにすべき義務があります。

今回の爆発事件を、山上事件の真相を隠したまま、山上容疑者にあらぬ罪をかぶせる口実にすることのなきように、全国民は注視すべきだと思います。

2.「Kさん」表記を変更

さて、事実は小説よりも奇なり 前編の後編を書こうと思いながら、目前の問題を優先して後回しになっていましたが、後回しが結果的に幸いした面もありました。

4/2に岸田政権と統一地方選を公開した翌日の4/3に、西日本新聞に、三多の臨終の場になった早良区(福岡市の西部地域)にある川浪病院の主治医であった、二ノ坂保喜氏が近年になって始められたらしい、在宅ホスピス活動を称える記事がかなり大きな扱いで出ていたからです。

なぜこの記事が幸いしたのか、その詳細については本号の「中編」全体の中で明らかにしたいと思いますが、結論から言いますと、事実は小説よりも奇なり 前編で葬儀の準備をすべきではと、わたしに提言してくれた人物を「Kさん」と表記していたことは、とんでもない誤解を招きかねないことに気づかせてくれたからです。

後編では「Kさん」を実名に変えて、その理由も書く予定にしていましたが、今現在も前編を読んでくださる方もおられるはずですので、まずは前編での表記を「元葦書房の社員で長崎大学の後輩でもあった小屋光生さん(「Kさん」と書いていましたが、色々と誤解を招くかもしれませんので、実名表記に変えました。4/6)」と、実名に変えました。

訂正が4/6になったのは、溜まっていた新聞を読み、くだんの記事を目にしたのが4/5の深夜近くだったからです。

うっとしい事件に実名で登場させられたのでは、小屋さんも迷惑だろうと思い匿名表記にしたのですが、4/3の記事を読むまでは、この表記が誤解を招きかねないとはゆめ思っていませんでした。しかしこの記事を読み、女性のKさんもいたことに気づかされ、急遽訂正した次第です。

詳しい事情については、事態の流れに沿って説明していきたいと思います。

3.拉致始まる

前編からの続きですが、平成6年(1994年)の5月も終わりに近い頃、突然、市民病院から三多の姿が消えました。わたしは毎日病院に通っていましたが、偶然なのかどうか、病院の入り口に向かおうとしていたわたしの目の端に、三多を乗せた車椅子がワゴン車のような車に吸い込まれるように消えていくのが映りました。とっさのことで勘違いかと思いましたが、三多が病院から出た(退院)したらしいことは事実でした。

三多は、わたしや子どもたちには全く無断で退院したのですが、翌日、小屋さんから、アパート(会社の近くで借りていたアパート)に戻ってるので来てほしいと言ってますよと電話がありました。

しかし余りにも異様な退院の仕方と、いったい誰が三多を退院させたのか、余りにも異様で不気味な状況に体が動きませんでした。

翌日か、翌々日かにも、小屋さんから同様の電話がありましたが、やはり体が動きませんでした。三多の母が世話をしていたようですが、今から思うと、どういう事態に遭遇することになったとしても、行くべきだったのではないかとの悔いがわき起こってきます。しかし、気になりながらもアパートには行けませんでした。

それからほどなく、今度は、早良区にある川浪病院に入院したとの電話が小屋さんからありました。この連絡を受けてすぐさま病院に行きました。一目見るなり、三多の余りの衰弱ぶりに強い衝撃を受けました。

余命一月を辛うじて生き延びていましたので、もともと衰弱はしていたものの、川浪病院で対面した三多の衰弱ぶりは入院以来、かつて一度も見たこともないほどの異常なものでした。体に手を触れただけで、骨ごと全身が崩れ落ちるのではないかとさえ思えるほどでした。

1週間ぶりの対面でしたが、三多はわたしの顔を見るなり、「どうしようもなかったんだ」と言いました。本人の意思を無視した、まさに拉致のような退院だったことがこの一言からも伝わってきました。この一言に、アパートに行くべきだったと後悔せずにはおられませんでした。

この一言を発した後、三多は「うちに帰りたい」と言いました。うちとは、葦書房所有の南区皿山にあった住宅で、わたしと子どもたちがずっと暮らしていた自宅です。枕元を見ると、アパートに拉致される前までの数ヶ月の入院中に、わたしが持ってきた食器などが全て並べられていました。

わたしは、主治医からは治療の方法はないと言われていましたが、何か体を元気づけるものはないかと調べました。ほうれん草ジュースがいいとのことを知って、主治医の了解を得た上で、毎日、ジュースを届けていました。飲み始めてしばらくすると、三多は調子がいいと、ほうれん草ジュースの効用を口にしていました。

ガンを消すことまではできないものの、全身によい効果を与えていたのだと思います。その際に使っていたものなどが並べられているのを見て、うちに帰りたいとの三多の思いが痛いほど伝わってきました。しかし動かすと、全身が砕け落ちそうなほどに衰弱しきっているその姿を前に、とてもその望みをかなえることは無理だと思いました。

帰路途中にもしものことがあったらと考えるだけでも恐ろしい。言葉では無理だと伝えることはできませんでしたが、三多にはわたしの思いは伝わったと思います。この場面も、今となっては悔いとして残っています。

4.川浪病院と二ノ坂医師の異様

川浪病院への最初の訪問では不在とのことで、主治医の二ノ坂保喜氏にはお会いできませんでした。翌日、子どもたちを連れて行ったところ、二ノ坂医師にお会いすることができましたので、子どもたちも連れてきていることを伝えました。

二ノ坂氏はこの初の対面では、治療はできないと言われました。前二つの病院でも同様の診断でしたので、ある意味当然のこととして受け入れました。しかし二ノ坂氏は、1年後に刊行された三多の追悼録には、わたしに伝えたものとは全く異なる全くのデタラメを書いています。

そもそもこの川浪病院では、入院期間は2週間足らずと短かったとはいえ、いかなる状況下であれ、わたしや子どもたちへの連絡は一度もありませんでした。皆無です。ですので、小屋さんからの連絡で、三多の入院後すぐにわたしが病院に行ったのも、ひょっとして想定外のことだったのかもしれません。

実はこの病院への入院は、連絡をくれた小屋さんによれば、生前の三多とはさほど交流のなかったミスターXさんの紹介だとのこととでした。しかし、長崎大学医学部出身の二ノ坂氏は、まるで長崎大学の同窓の縁で、三多自らがこの病院を選んだかのようなデタラメを追悼録に書いています。デタラメだらけ!

再入院するのであれば、衰弱しきっている三多の様子からしても、アパートから一番近い逓信病院か、せめて博多区にある市民病院を選ぶべきであったにもかかわらず、なぜ遠路早良区の外れにある川浪病院を選んだのか。

その理由は、その後に展開する異様な光景によって、より鮮明になってきます。

川浪病院でまず驚いたのは、医師や看護師などの病院関係者ではない、外部の人たちがやたらと、三多の病室を出入りしていたことです。

前の二つの病院でもありえぬ光景でしたし、若い頃、6ヶ月ほど入院したわたし自身も経験したことはありません。親の入院時にも目にしたことのない光景でした。

わたしがこの川浪病院を訪問し始めた頃、三多とはさほど交流のなかったある飲食店のご店主が病室に入ってきてびっくりしました。こちらのお店にはわたしも1,2度伺ったことはありましたが、三多も顔見知りではあるものの、常連になるほどのお付き合いのなかったことだけは明確に断定しておきます。

お料理もお店の雰囲気などもすばらしいですが、単に交流圏が重ならないという意味です。その彼がなぜ、この病院に出入りしているのか。しかも彼の出入りの様子からは、初めて病院を訪れたのではなく、「勝手知ったる」という印象でした。

入院に至る経緯からしても、余りなじみのない人々が出入りしていることからしても、川浪病院は、わたしや子どもたちを排除するために準備された舞台であることは、いやでも認識せざるをえませんでした。

当時はここまで明確に認識していたわけではありませんが、わたしや子どもたちにとっては、非常に行きづらい場所になっていることは強く感じていました。しかしわたしはある時期までは、毎日病院に通っていました。

以前のように、ほうれん草ジュースを持って行けるような雰囲気ではありませんでしたが、三多の顔を見るために、遠くなったとはいえ毎日通っていました。

入院して数日後、三原さんが500万円の借り入れをしたいとのことで、三多に了解を得にきました。三多は了解しましたが、わたしにも了解を取るようにとのことで、三原さんは手にした実印を持って、わたしにも500万円の借り入れをする旨報告していました。

8年後、わたしが葦書房に入って帳簿を見て分かったのですが、三原さんはこの正式の銀行借り入れをする前にすでに、会社のキャッシュカードを使って限度一杯の500万円を借り入れていました。三原氏は、葦書房の経営に関与してからわずか4ヶ月余りの間に、1000万円も借金を重ねていたのです。

その後しばらくして、三原さんから、三多の長兄が葦書房を継ぎたいと言ってるとの話がありました。合わせて三原さんは、なぜかわざわざ、長兄には保険金のことも話しているとも付け加えました。

わたしはこの時初めて、長兄が葦書房経営の意思があることを知って驚きました。身内の人間ならば、三多が年中、金策に負われながら経営していることを知っていますので、自ら進んで経営を引き継ぎたいとは誰一人思わないと思っていたからです。

保険金のことを聞いて、長兄も自分でもできると考えたのかとも思いましたが、高校の教員という安定した職を捨ててまでやるのは余りにも危険すぎると心底危惧しました。しかし反対する理由もありませんでしたので、三原さんにお任せしました。

それから間もなく、長兄の意思を三多に伝えることになったのですが、その頃には、三多は人の話を聞くことはできるものの、自らは言葉を発することができなくなっていました。

長兄は葦書房の経営に興味を持ったからか、川浪病院にはわりと頻繁に顔を出していましたが、全く言葉での会話ができなくなってから初めて、三原さんとわたしの立ち会いのもとで、その意思を伝えることになったことは、思えば不思議なことでした。。

三多は言葉を発することが出来ませんので、長兄の申し出に対しては、手を使ってその思いを伝えていましたが、親指と人差し指を丸めて長兄の前に突き出しました。カネを出せ、タダでは渡さないという意思を伝えたのだと思います。

わたしは少し離れたところで見ていましたので、長兄が何と答えたのかは分かりませんでしたが、今度は両手を大きく交差してバッテン印を掲げました。三多は長兄の返答や申し出に同意しなかったことだけは分かりました。

その場にいたのはわたしと三原さんだけですので、二人でこの光景を見ておりました。長兄はその後、病室を出ましたが、代わって三原さんが三多の側に座り、何やら話しかけていました。

長兄による後継が拒否されましたので、三原さんは、それに代わる案を示したのだと思います。しばらくして三多は、両手で可能な限りの大きな円を描き、そのすぐ後に両手を使って大きなバッテン印を掲げました。

わたしには、全てを終わりにせよとの意思表示に見えましたが、三原氏は、この時の三多とのやり取りは、葦書房を全面的に三原氏に託すという意思表示であったと追悼録に記しています。

いくら保険金が入ってくるとはいえ、わたしはもともと葦書房を継ぐ気も、子どもに継がせる気もありませんでしたので、葦書房を閉鎖せずに、三原氏が継がれたのはよかったと思っています。

また、長兄も葦を経営することにならず、よかったと思っています。保険金が入ったとはいえ、必ずや、退職金はおろか他の資産も葦につぎ込むことになったであろう事は明白でしたので、その被害から免れたことは幸いだったと思います。

今から振り返ると不思議ですが、この後継をめぐるやり取りをしている間は、長兄とわたしと三原さん以外には誰も入ってきませんでしたね。

5.病室に女祈祷師

しかし、この後継をめぐる三多とのやり取りの翌日か翌々日だったかに、川浪病院以外では起こりえない異様な光景が出現しました。女祈祷師が三多の病室にやってきたのです。

全身白装束で身を包み、クビからは長い数珠のような物を垂らし、いかにも巫女めいた出で立ちの細身の女性が病室に入ってきました。偶然なのかどうか、ちょうど三原氏が病室に入ってきてから、程なくのタイミングでした。

この時の病室には、わたしと三原氏以外にも外部から何人もの人が集まっていました。わたしと三原氏を除くと、いずれも三多とはさほど密なる関係にはなかったような人々です。川浪病院には頻繁に顔を出していた、身内である長兄はいませんでした。

その中のお一人が、久本さんの病状回復祈願のためにXさんが呼んだとのことと、遠路はるばる北九州から来られたとの説明をされていました。

病院関係者はいませんでしたが、女祈祷師を病室に呼ぶとは余りにも異常。この病院は、外部からの出入り自由とはいえ、こんな異様なことまで許可するのか。この病院ではもともとわたしや子どもたちは排除されていましたので、病院もXさんもいったい誰の許可を得て、女祈祷師を呼んだのかと不信を募らせる間もなく、女祈祷師は三多のベッドの下で、何やら呪文を唱え始めました。

すると、一言も言葉を発することが出来なくなっていた三多は、体を上下に動かし始めました。その動きは次第に強く激しくなり、海老反りになって跳ね上がってはベッドに打ち付けるという異様な動きを、三多は一瞬たりとも止めることなく、続けていました。

見ている方が苦しくなってくるような動きでした。明らかに女祈祷師を拒否する意思の現れだと思わざるをえませんでしたが、女祈祷師はかまわずに祈禱を続けていました。しかし祈祷を続ければ続けるほど、三多の海老反りになって体を打ち付ける動きは激しさを増してきます。

わたしはこの光景を見ていることには耐えられなくなって、三多の体の上に覆いかぶさって、「大丈夫よ」と声をかけました。すると三多の上下運動は収まり、静かになりました。女祈祷師は顔も上げずに病室を出て行きました。

三原氏をはじめ、病室にいた人々は、この異様な光景の一部始終をつぶさに見ていましたが、わたし以外には誰も、この光景を外部に発信した人はいません。

おそらくこの女祈祷師は、三多が全く望まない託宣のようなものを発信するために呼ばれたのだろうと思います。そしておそらく事前に準備されていた託宣を聞くために、三原氏をはじめ外部の人たちが何人も立ち会っていたのだろうと思います。

しかしその企みを敏感に察した三多は、全身を使ってそれを拒否しましたので、当初のシナリオは完全に崩れてしまった、というのが事の真相ではないかと思います。ただ、託宣の内容については具体的には特定できませんが。

6.三多、臨終前後のこと

しかし女祈祷師作戦が失敗するや、新たな事態が展開し始めました。三多の病室に三多の母が寝泊まりを始めました。三多のベッドの横に母の簡易ベッドが置かれ、三多の側に近づけなくなりました。

病室内のこの物理的な変化は、当然のことながら、目には見えないバリアとなって、わたしを拒むことになります。あなたは、ここに来るべきではないとでも言うかのように。

市民病院からの拉致退院にも母は利用されていたと思いますが、母がなぜこの様な役回りを担うようになったのか、その激変には驚きを通り越したものを感じています。

当初長兄は母には三多の余命のことは話していないと言っていましたので、わたしも母には余命のことは話していませんでしたが、三多が早く籍を戻さないと時間がないと言ってるよと何度か言われました。

しかし余命は延びているとはいえ、余命一月と宣告されている中で、籍を戻すというのは、何か不正をするようで、わたしは迷っていました。その後に展開する異様な事態を少しでも想像できていたならば、迷いを捨てて、籍を戻していたかもしれません。

母は、三多の死をめぐる騒動までは、子どもたちに対して、節目節目には、過分なほどの心遣いを寄せてくれていました。

また、わたしが西日本新聞に週2~3回寄稿していたコラムを全て切り抜き、ファイルまでして読んでくれていました。わたしは一度もその話をしたことはありませんでしたが、三多が話していたらしい。しかもコラム名は誰にも分からないような名前を使い、3回も変えていましたが、3回変えた名前のコラムも全て読んでくれていました。

このコラム原稿は西日本新聞文化部にFAXで送っていましたが、三多の死後しばらくして、原稿を送っても新聞社には届いていないという障害が発生しました。3回まで送信を試みましたが、不達現象が続いたので、以降は原稿を送らなくなってしまいましたが、10年近く、週に2~3回、多いときは毎週のようにコラムを書ていました。

この長い年月に渡るわたしのコラムを、母が変わらず読んでくれていたことを知った時は、驚くと共に感謝いたしました。

さらに、わたしが6ヶ月も入院した際には母にもお世話になり、感謝することはあっても恨む理由は何一つありませんが、市民病院から拉致退院させられる頃には、母にはわたしに関する何かひどい悪口が吹き込まれていたのだろうと思います。

川浪病院のことを書くとなると、嫌でも母や長兄のことにも触れざるをえないのが辛いですが、何をすれば、これほど簡単に他者の人間関係を変えることができるのか、考えてしまいます。

母や長兄にわたしに対する強烈な不信感が埋め込まれているのは、母の様子からも如実に伝わってきますので、病室にいることはもとより、病院に行くことにもためらいが生じてきました。さらに言うならば、恐怖心のようなものを感じずにはいられませんでした。

恐怖心に体が動かなくなって、数日病院には行かない日が続きました。そのわたしを見て、長男が何で病院に行かないんだと強い口調でなじりました。この頃は、長男はわたしよりはしっかりしていたようです。

長男のこの叱責で、川浪病院は、おそらく臨終間際になってもこちらには連絡してこないのは明らかですので、このままでは、子どもたちに、父親の臨終にも立ち会わせることができないかもしれないことに思い至り、数日ぶりに子どもたちを連れて病院に行きました。

行くと、三多の様子はさらに悪化しているように見えました。母はずっと三多の側に付き添っていたようですが、他にも誰が誰か分からぬほどに大勢の人が立ち並んでおり、わたしや子どもたちは、すぐには三多の側には近寄れない状況でした。

わたしや子どもたちが排除されていることを、露骨に感じざるをえない状況がさらに強まっていましたが、逃げ帰るわけにはいきません。せめて子どもたちには、父親の臨終には立ち会わせたい。その一心で、異様な雰囲気の病室に留まりました。

それからほどなく三多は息を引き取りましたが、三多の側に母がいる上に、周りには大勢の人たちがいる中では、わたしも子どもたちも三多に触れることもできないまま、最期を見届けるしかありませんでした。

なんという異様な最期の光景だったのかと、今思い出しても身の毛がよだつ思いに襲われますが、この異様な光景は、川浪病院以外では起こりえなかった光景であることは特に強調しておきます。

さらに言うならば、一連の異様な光景を可能にするために川浪病院が選ばれたのだということです。それを支えたのが、当時は川浪病院の副院長でもあった主治医の二ノ坂氏です。

お通夜では、わたしと子どもたちはやっと、三多と静かに過ごすことができました。

実はお通夜と葬儀とは、別々の斎場で営まれたことを思い出しまして追記しております。お通夜は皿山の自宅近くの小さな斎場で営まれましたが、このお通夜には母も長兄も姿を見せていません。わたしたち親子は三多の亡骸と一夜を共にしましたが、この間、母や長兄の姿はありませんでした

ただ、三多が身につけていた装束は三多の亡き父の着物であることを、翌日の葬儀で顔を合わせた時に母が話しておりました。

お通夜は自宅の近くで営まれましたので、ご近所の方々もお参りしてくださいました。三多は亡くなった後、やっと自宅近くにまで戻ることができたわけですが、今思い返すと、三多は何と過酷な死の刻を強いられたのかと、このブログを書きながら涙が止まりませんでした。

当時はただただ、言葉にはしがたい異様な雰囲気に半ば呆然とする日々でしたので、冷静に状況を観察する余裕すらありませんでした。しかし30年近く経った今、思いがけずも、長男の名前書き換えがきっかけで初めて、当時を冷静に振り返ることになりました。

お通夜に母や長兄の姿が見えなかったことについても、それとして認識したのも初めてであったことにも思い至った次第です。

また、お通夜には、仕事関係者の方々の姿もありませんでした。枕経にお見えになったお寺さんとご近所さんのお参りをいただいた、きわめて私的でひっそりと静かなお通夜となりました。他県に住むわたしの身内には、三多が亡くなってから伝えましたのでお通夜には間に合いませんでしたが、兄と妹二人が共に夫婦で参列してくれました。

翌日の葬儀は中央区にある積善社という大きな斎場で営まれましたが、これら式場等の手配は三原氏によるものです。自宅近くの斎場を望んでいた三多の思いは、お通夜の場でかなえられましたが、葬儀にはに全国から500人を越える方々の参列をいただきましたので、南区の自宅近くの斎場ではとても対応できなかったと思います。

これほど大勢の方々に参列いただくことになろうとは、わたしはもとより誰も想像もできなかったと思います。その死をもって、三多の仕事の偉大さを知った次第です。(4/18)

長男を喪主に葬儀が行われましたが、あらためて言うまでもなく、三原氏が全てを仕切っていました。

今は亡き、石牟礼道子さんが弔辞を読まれましたが、その直前に、石牟礼さんは、式場の隅にある手荷物置き場のような狭い部屋で、巻物状の弔辞の原稿を書き直しておられました。

非常に高名な作家であり、胸に染みる入る名文をお書きになる石牟礼さんが、事前に準備なさっていた弔辞を、控室ではなく、間もなく葬儀が始まる式場の狭い片隅で書き直しておられるというのは、通常ではありえぬ異常なことだと思います。

誰かから訂正を指示されたのでなければ、こんな異常なことは起こりえなかったことは明らかです。訂正を求めたのは誰かと言えば、三原氏以外にはありえません。

どこをどう書き直されたのかは不明ですが、石牟礼さんは弔辞の中で、三多を見舞った時には三多の母が付き添って看病していたと披露なさってていました。石牟礼さんは、5ヶ月余り入院生活が続いた三多を、わずか2週間ほどしかいなかった、早良区の外れにある川浪病院に移ってからの臨終間近になって見舞われたことになります。

それがいったい何なのだといわれそうですが、わたしや子どもたちを排除する舞台となった、川浪病院に焦点が当たるような細工の一つではないかと思っています。

ところで、三多の死亡届は、どこの誰かは分かりませんが、勝手に長男の名前を使って市役所に届け出ていたことが分かりました。三多が亡くなった川浪病院では、わたしや子どもたちは排除されていましたので、死亡手続きなどからも排除されており、雰囲気的にも外周に追いやられていた感じです。

ただ、お通夜や葬儀では、唯一三多の血を引く子どもたちを主宰者に据えざるをえないこともあり、代表して長男が喪主を務めていましたので、その陰で、川浪病院で展開されていたような、異様な事態については、誰も想像もできなかったと思います。

しかし葬儀が終わっても、川浪病院+二ノ坂保喜氏を含む正体不明の勢力による異様な対応は、この先もさらに続きます。(後編に続く)

今回は、「事実は小説よりも奇なり 後編」として、このお話しを一気に完結させる予定でしたが、まだまだ話が続きますので、今回を「中編」にして、完結は次の「後編」に回すことにいたします。