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事実は小説より奇なり・後編-5

黙って見過ごすことの出来ない問題が多々発生していますので、どちらを優先すべきか、ずいぶん迷ったのですが、「事実は小説よりも奇なり」を7月中には完結したく思い、続きを書くことにいたしました。 

1.なぜ葦書房を引き継いだのか

なぜ葦書房を引き継いだのかといえば、理由は非常に単純です。一言でいえば、親バカゆえの選択でした。

わたしは1999年3月に純真女子短期大学(現在は純真短大)を辞めたのですが、次の勤め先がなかなか見つかりませんでした。ここならと思うところの面接を受けたのですが、面接官に、短大に戻ったらどうですかと言われ、びっくりしました。

わたしは、自分の授業が盗聴されるという、まず他には例のない理由で短大を辞めたのですが、その短大に戻ることを勧められるとは、驚きを通り越して不気味でした。わたしの行動は、誰かに監視されていると考えざるをえませんでした。

これでは福岡での職探しは無理だと思い、東京で探すことにしました。その頃ちょうど、長女が早稲田大に通っていましたので、長女を頼って上京することにしました。 

長女は、三多が亡くなった時は高三でしたが、卒業後、関西の某大学に入ったものの、1年で退学。卒業だけはしないさいというわたしの猛反対は完全に無視されました。以来長女は、半年余り自宅で受験勉強をしていたようですが、早稲田の政経学部に合格。びっくりしました。一人でよくもがんばったなあと、我が子ながら感心しました。

長女は奨学金をもらいながら早稲田を卒業しましたが、わたしが上京した頃はまだ在学中でした。まず東京で暮らすための部屋探しから始め、その後に職探し。人前でしゃべる仕事以外の職種で探しましたが、出版関係も除外しましたので、適職はなかなか見つかりませんでした。

すでに東京に移住していましたので、何か仕事を見つける必要があるのですが、色々自己規制を設けていることもあり、広い東京でも職探しは簡単ではないことが分かりました。そこで自分で出版社を始めることにしました。

出版経営の厳しさは、三多を通して骨身にしみこんでいるはずなのに、何を血迷ったのか、アホなことを始めてしまいました。

しかも手っ取り早く、まずは、自分の書いた原稿を出版する予定にしていました。今思い出して書いていても恥ずかしさ一杯。これ以上書きたくないほどですが、書きためていた「柄谷行人論」を出すことにしました。

当時も、そして現在も、「柄谷行人論」として単独で刊行された評論はありませんので、希少的価値もあり、是非とも出版したいと考えていましたが、出版してくれそうな出版社も見つからず、ならば、自分で出版しようとなったわけです。

この頃、長男は、立命館大学を卒業した後、海外に出掛けたりして定職には就いていませんでした。そこで、わたしの仕事を手伝わせようとしたのですが、母親の本を出す手伝いなんかしたくないと思ったのか、長男は他でアルバイトを始めました。

三多が亡くなった時は中2だった次男はアメリカに留学中で、この頃は福岡の自宅には誰もおらず、空き家状態でした。長女、わたし、長男の3人は上京していましたが、一緒には住まず、それぞれ個別に部屋を借りていました。

食べていけるのかということまでは考えずに出版社を始めてしまいましたが、新しい一歩にふさわしいこともしたいと思い、HP作りにも挑戦しました。非常にカラフルで他に例のないようなユニークなHPが出来上がりましたが、このHP作りがきっかけで、非常に初歩の初歩ながら、デジタル技術の威力に開眼。この新技術にかなりの衝撃を受けました。

見知らぬ渡橋で、自作のHPを唯一の広報手段にして、2000年7月に拙著を出版しましたが、書店に置けば即売れるという異例の売れ行きでした。しかし、全マスコミからは無視され続けました。

翌年にも自分の本を出しましたが、その頃、突如、長男が三原さんの了解を得たので、葦書房で働くと言い出しました。びっくり仰天しましたが、長男の住所などの連絡先は、三原さんはご存知ないはずですので、本人から連絡を取ったのだと思います。

驚いたことには、三原さんからは、葦書房の株を持って来るのが、葦書房就職の条件だと言われたとのこと。葦書房有限会社の株は全株三多の所有でしたので、全株を3人の子どもたちが承継しました。しかし色々なことがありましたので、正式の手続きを踏んで全株を子どもたちから譲渡を受け、わたしが所有していました。

商法改正があり、承継時には100万円だった株を300万円に増資しましたが、その増資もこちらで手続きしております。葦書房に就職したければ、その株を全株持って来いというわけです。

以前、三原さんに株の譲渡を申し入れたことがありましたが、100万円なら買うがそれ以上では買わないと言われましたので、三原さんに譲渡することは断念していました。三原さんはさらに図々しくなって、100万円どころか、タダで手に入れようということらしい。

わたしは、そこまでして葦書房なんかに入るな!と長男を叱りつけましたが、それからほどなく、長男が、三原さんから株は持って来なくていいと言われたので、葦書房で働くと報告に来ました。そこでわたしは、たとえ手ぶらでも、葦書房なんかで働くんじゃないと猛反対しました。

しかし長男の葦書房行きの決意は揺るがず、福岡に戻る費用を貸して欲しいと言い募りました。わたしの猛反対の気持ちも変わらず、一銭たりとも貸さないといって長男を追い出しました。

ところがそれから数日後、長男から、葦書房で働き始めたとの電話が入りました。交通費は近くに住んでいた長女に借りたとのことでした。よくもまあ、まだ学生の妹のところに借りにい行ったものだと驚くととともに、よくもまあ長女もお金を貸したものだと驚きました。

しかしこの時の長男の声は、東京にいた時には聞いたことのないような明るい弾んだ声でした。わたしは少しほっとするとともに、心配しすぎていたのかと思ったほどでした。

しかしそれから数ヶ月後、三原さんから分厚い封書が届きました。一魔くんに3ヶ月働いてもらったが、これ以上葦書房で働いてもらうことは不可能な状況なので、辞めてもらったとの馘首通知の手紙でした。

なぜダメなのか、その事情が非常に詳しく書かれていましたが、母親としては読むには耐えがたい事が縷々綴られていました。

実は、長男は立命館大に入学後、三多が亡くなる前年のまだ元気な頃に、葦書房でアルバイトをしていました。三多が葦書房で長男にアルバイトをさせたのは、長男に葦書房の仕事を手伝わせたい、ゆくゆくは後を継がせたいと考えていたからだと思いますが、三多の死によって、長男の葦書房での2年目のアルバイトはありませんでした。

三多がもう少し長生きしてくれていたら、長男も、経営はむりだとしても、編集などの出版社の仕事を父親の側で身につけることはできたかもしれませんが、その機会は永遠に失われてしまいました。

長男は父親亡き後の三原さんのもとで、久々に葦書房で仕事を始めましたが、心配していたとおり、悲惨な結果を迎えました。基本的には本人に問題があったと思いますが、クビになったものの、本人からは何の連絡もありません。

やむなく福岡に戻りました。久々に戻った我が家には長男の姿はありません。片付けものをしていると、長男が三原さん宛に書いた手紙の下書きを発見しました。ただの手紙ではなく、嘆願書そのものでした。

反省を縷々述べるとともに、葦書房で仕事をさせてほしいとの悲痛な思いが綴られていました。三原さんからの手紙には、頭がおかしいと書かれていましたが、この嘆願書は文意鮮明、文字の乱れもなく、親の贔屓目ではなく、第三者的に見ても、読めば誰しも、多少なりとも心が揺すぶられずにはおれない内容でした。

別の場所からは、葦書房に勤めている間、長男が毎日書かされていた反省文の束も発見しました。こんなことを毎日やらされていたのかとぞっとしました。三原さんには、三多の遺児に力を貸してやろうという気持ちなど、毛ほどもないことは言うまでもありません。

三原さんにこれほどの仕打ちを受けても怒るどころか、葦書房で仕事を続けさせて欲しいとの嘆願書を書いている長男を哀れに思うと同時に、それほど葦書房で仕事をしたかったのかと、心底驚きました。

この嘆願書を三原さんに手渡したのかどうかは、本人に聞いても否定も肯定もしないので分かりませんが、母親であるわたしには十二分に伝わりました。そこまで思っているのであれば、葦書房を引き継ぐしかないと決意し、三原さんと話をすることにしました。

葦書房はこのままでは早晩立ちゆかなくなることは明らかでしたので、その点を含めて三原さんと話をすることにしました。とはいえ、長男の嘆願書を見るまでは、葦書房の経営状況についてはまともに考えたこともなかったのですが、そういえば葦書房の前途も危ういことにも、この時初めて気がついた次第です。

9/8 追記>長男がどういう仕事をあてがわれていたか

なお、長男が葦書房でどういう仕事をあてがわれていたのかについては、余りにも哀れに思い書いておりませんでしたが、この際、やはり書き残しておくことにしました。

本人は一言も話しませんし、三原さんからの手紙にも、仕事がきちんとできないという不満は書かれてはいたものの、どんな仕事をさせていたのかについては何も書かれていませんでした。が、長男が毎日書かされていた反省文を読めば、いやでも仕事の中身が分かりました。

返品本の再生作業を、クビになるまでの3ヶ月間毎日やらされていたらしい。返品フリーの出版業界では、汚れたり、傷んだりした返品本を再出荷できる程度に再生する作業は必須不可欠です。きれいなカバーに取り替える前に、消しゴムや目の粗い砂消しなどを使い、本を傷めないように汚れを落とすのは簡単ではありません。

長男は勇躍、喜び勇んで葦書房に就職したものの、来る日も来る日も本の再生作業をやらされただけではなく、きちんとできなかった作業の問題点について、毎日毎日反省文を書かされていたのです。こんな状況に置かれていたとは、わたしは反省文の束を見るまでは想像もしていませんでした。

長男からは、葦書房に就職したという明るく喜びに満ちた電話が一度あったきりで、その後は全く電話一つありませんでした。電話も何もないので、三原さんからのクビを知らせる手紙が届くまでは、順調にいってるのだろうと思っていました。

それだけに、実態を知ったときはかなり衝撃でした。長男の小さい頃は、三原さんは福岡市内に住んでおられたので、家族そろって何度か遊びに行ったこともありましたが、三原さんも奥様も長男をとてもかわいがってくれていました。三原さんにはそんな記憶もかけらもなく、消えてしまっていたらしい。

もっとも、そんな古い付き合いでなくとも、三原さんのような仕打ちは他に二つとはないはずです。

2.三原氏の社長解任と全社員退社

ところで、前号事実は小説よりも奇なり・後編-4では、渡辺京二氏の逝きし世の面影(参照:渡辺京二特集)の増刷部数について、とんでもない勘違いをしていました。当時、倉庫には『逝きし世の面影』が2000部以上は残っていましたので、その光景がまざまざと蘇り、最初の5000部は完売、増刷分の5000部は半分以上残っていたと書きましたが、実は9刷りも増刷していました。倉庫に残っていたのは、その9刷りの残部でした。

ということで、三原さんは三多の残した遺産の一つである『逝きし世の面影』の出版では、1億円余りの純利益をも手にしています。事実は小説よりも奇なり・後編-4の公開後、3日ぐらいしてこの重大な間違いに気がついて訂正しておりますが、これら大物の出版物について、金額に換算したのは今回が初めてです。(訂正ついでに、取り上げました書籍に、当時わたしが書きました紹介ページへのリンクも貼っております。)

保険金やピンハネされた退職金などの金額については何度も取り上げてきましたが、今回初めて書籍の売上げを金額に換算してみて、その額の余りの大きさに衝撃を受けています。『逝きし世の面影』だけでも、経費を差し引いた純利益が1億円以上もあったとは、衝撃以外の何物でもありません。

わたしは、三原さんには葦書房の借金を減らす気は毛頭ないことにはかなり前から気がついていましたが、保険金や退職金などからの諸々のピンハネ分以外にも、『逝きし世の面影』だけでも純利益1億円以上も手にしながら、葦書房の借金を減らすどころか、三多死亡時の倍近くにまで借金を激増させていることの、余りの異常さに今回初めて気がつき、全身に震えが走るほどの衝撃を受けています。

単に経営能力ゼロゆえの結果なのか、何か意図した結果なのかは分かりませんが、当時は財務状況などはよく分からぬまま、わたしは、三原さんによって借金をただひたすら膨張させられた葦書房を引き継ぐことになってしまいました。

長男馘首の手紙をもらってからの初の三原さんとの対面では、あれこれやり取りをした後、業績が下降の一途を辿っており、このままでは葦書房の前途は危ういので、三原さんには社長を辞めていただきたいと伝えました。対面していたのは社長コーナーとはいえ、ドアもない、筒抜けの場所でのやり取りですので、社員全員が聞いていたはずです。

三原さんからは、何か反論や拒否行動があるかと身構えていましたが、何と、三原さんは即座に社長辞任を了承しました。これには正直びっくりしてしまいましたが、三原さんは本心では社長を辞めたかったということが分かりました。

社長を辞めたいということは、葦書房の経営を続ける見通しが立たなくなったからにほかなりません。

長男に対して、葦書房の株持参での就職を誘導したのも、三原さんにとっては、葦書房の経営から手を引くシナリオの一つだったのだろうと思います。全株所有すれば、葦書房を借金込みで売ることも可能だからです。

しかしそれが不可能になり、手ぶらの長男を雇用。3ヶ月間、毎日長男に反省文を書かせ続けた挙げ句に、クビ。そこでわたしが出てくることまで想定していたかどうかは分かりませんが、三原さんは念願通りに社長を解任され、借金まみれの葦書房をわたしに押しつけることに成功しました。

わたしは、すぐさま東京に戻り、引っ越しの準備に取りかかりました。仮の住まいと思いながらも、2年も住んでいると処分すべき荷物も増えていますし、出版した自著の処分にも手がかかりました。

2週間ほどかけて引っ越しを終え、福岡に戻ってきたのですが、想定外の事態が待ち構えていました。

三原氏解任に全社員が反発し、三原氏を解任するなら、彼ら全員が一斉に辞めると表明。三原さんに退任を求めて即了解を得た初回の話し合いは9月の初め頃でしたが、その直後も、福岡に戻って来るまでの2週間ほどの間にも、社員からは何の反応もありませんでしたし、反対の声もこちらには届いていませんでした。

三原さんは社員のように態度は鮮明ではありませんでしたが、初回、わたしの退任要求を即了解したような態度も鮮明にしない、できないような印象でした。

しかし東京を完全に引き払ってきたわたしには、葦書房の経営を引き継ぐという以外の選択はありませんでしたので、その旨、社員にも伝えました。結果、全社員が退社。

全マスコミが大々的に報道し、大騒動に発展してしまいました。この騒動でも、わたしに取材に来たマスコミは皆無。三原氏と社員たちの言い分だけで記事が書かれ、報道されていました。

この大騒動報道を受けて、大口債権者たちが葦書房にやって来て、わたしの社長就任に疑義を呈しました。負債をどうやって返済するのか、その具体的な道筋が示されなければ、帰らないと口々に言われました。

この日、2001年9月30日に、わたしは法務局に代表就任登記に行く予定にしていたのですが、一日中事務所から外に出ることができず、登記は翌日の10月1日になってしまいました。

この日押しかけて、わたしが逃げないようにと閉じ込めるようにしていた債権者たちも、わたしが必至になって負債を返済し始めたのをみて、非常に協力的な対応をしてくれるようになりました。

社員たちが一斉に辞めた後は、会社には現預金は1銭も残っていませんでした。残っていたのは、在庫本と1年近く先まで振り出されていた支払手形のみ。ということは、三原さんたちは、わたしが葦書房を引き継ぐことを見越して、その前に現預金を全て引き出していたことになります。

三原さんと社員たちはそこまで示し合わせていたことになりますが、巨額の借金をこちらに押しつけただけではなく、会社の現預金全てを持ち出すとは、余りにも悪辣すぎます。

この数年後に分かったことですが、自費出版の後納金まで収奪していました。自費出版は、受注した際に、手付金として4割を受け取るのですが、残りの6割は納品時に受け取ります。

彼らは葦書房を辞めた後は、葦書房外で納品し、6割の後納金を受け取っていたのですが、それら自費出版の印刷費は当然のことながら葦書房が手形で支払っています。類似例は、2例はあったはずです。

自費出版関連の資料は非常に古い分しか残っておらず、おかしいなあと思っていたのですが、まさか彼らが持ち出しているとは思いもしなかったので、気がつくのが遅くなりました。彼らは収奪がバレないようにと資料を持ち出していたのでしょう。

借金だけはこちらに押しつけるだけ押しつけ、収奪可能なものはとことん収奪するという精神では、社長も社員も一体化していた感じですね。

しかし後でつくづく思ったのは、社員が全員辞めてくれて助かったというのが正直なところです。全社員が残っていたならば、その人件費だけで、存続困難になっていたのは明らかでした。当時の従業員数は、正社員が8人、パート、アルバイトを入れると10人ぐらいだったと思います。

3.大借金との格闘

代表就任と同時に、即、金策が始まりました。毎月2000万円前後の支払に追われました。

まずは、わたしの預貯金類を引き出し、返済に充てました。三多の退職金などは、3人の子どもたちの教育費に使った残りは、結婚費用にと3人の子どもたちの名前で積み立てをしたり、証券会社の債券を買ったりしていましたが、全て解約して返済に充てました。

わたしの生命保険も解約して返済に充てましたし、ささやかながら親から譲り受けた資金を基に積み立てていた養老保険も解約しました。我が家の持ち金全てを吐き出しましたが、支払はまだまだ続きます。やむなく、兄と二人の妹からも借り入れしました。かなりの金額になりますが、今に至るも返済できずにいます。申し訳ない気持ちで一杯です。

抵当に入っていた皿山の自宅も手放しましたが、まだ返済は続きます。新たに銀行や国民金融公庫のみならず、ノンバンクからも借り入れましたが、借入金は借金が増えるだけで苦しさが増すだけでした。

借金返済のために新たに借金をするというのは、誰もがついやりがちですが、最悪のサイクルであることに後々気がつきました。しかし一旦、このサイクルにはまり込むと抜け出すことは難しい。

ついに手形の決済に窮するに至りましたが、事情を話して、手形を小額に分割することをお願いをしたところ、即座に了解いただき、手形の不渡りだけは免れることはできました。それまで必至で返済してきましたので、こちらの誠意も伝わり、ご協力いただけたのだ思います。以降も、同様のことを繰り返しお願いすることになり、手形の決済が完了するまでにはかなりの時間がかかりましたが、無事完了することができました。

ということで、倒産という最悪の事態だけは免れましたが、三原さんたちの残した借金返済のために、身ぐるみ全てはぎ取られたような結果になりました。

三原さんたちの残した借金を返済するためだけに葦書房を引き継いだような結果になりましたが、後悔しているかと言えば後悔はありません。多分、様々な偶然が重なる中で、他の選択はないという事態に、直面させられたのだと思います。

その偶然とは、長男がわたしの反対を押し切って葦書房に行ったことが発端ですが、もしもわたしが短大を辞めていなければ、こういう流れにはならなかったと思います。

持ち金全てを吐き出すことになりましたが、葦書房を引き継いだことで、三多や葦書房をめぐって様々なことが判明しました。そしてわたしの手で葦書房を閉鎖することができることは、苦労の果てに手にした一番の成果だと思います。

ただ、このレポートを書く中で、三原さんが、わたしが考えていた以上にあくどい人間であることが分かり、正直、複雑な気持ちです。

ということで、このレポートは、もう1回ぐらい続きます。この事件は、余りにも異常すぎます。早く完結させたいと思い、かなり簡略化して書いておりますが、今回も完結には至りませんでした。

事実は小説より奇なり