古代中国との長い交流
2018-10-28「葦の葉ブログ2nd」より転載
前号広がる韓流史観の公開時には気がつかなかったのですが、数日後、ふと、九国博で遣唐使の実物模型展示が変更されたことと、読売新聞が報じた「奈良仏教は新羅から」という新種の韓流史観の誕生とは、裏で連動していたのではないかと思い至りました。前号を書いている時点では、いずれの話題も書きながら、両者の密接な関連にまでは思い至りませんでした。そこまでの連係プレイがなされるほどに、この業界(or 学界)が密接に繋がっていようとは想像もできなかったからです。
日本文化は韓国が作ったという韓流史観の洗脳により、古代の日本が中国文明の強い影響下で国造りを進めてきたという、史実に基づく従来からの定説が否定されてきた結果、九国博の展示も、山積みされていた唐から持ち帰った太い巻物の書物が、全て撤去されるという憂き目に遭ったわけですが、なぜ山積みされた書物が、経典と記名された細い細い巻き物5巻に突如変えられるに至ったのか、その唐突な変化の理由はすぐには分かりませんでした。
しかし「奈良仏教は新羅から」という新説を証明する正倉院御物がこの秋に展示されることを受けて、この新説を大々的に鼓吹しようと準備してきたのであろうと考えると、なぜこの時期に唐突に九国博の遣唐使展示が変更されたのか、その理由は明らかとなります。
博物館学界全てとまでは言いませんが、少なくとも韓流史観信奉者たちは、新羅戸籍が下張りに使われている「華厳経論けつ」が、秋の正倉院展に展示されることは事前に知っていたはずです。日本の仏教も韓国からという韓流史観をさらに強化するために、正倉院展が利用された、あるいは便乗したのではないかと思われます。正倉院展には読売新聞も協賛していますので、メディアも総動員しての韓流史観流布作戦です。
正倉院展まで利用するとは、韓流史観の浸透ぶりには驚愕の一語ですが、古代に関連する韓流史観の出所の基本は日本書記です。韓国にはこの時期の史書はもとより、文字資料は皆無ですので日本側の資料である日本書紀に依拠していますが、それも韓流史観に都合のいいところしか見ていません。学問とはほど遠い、きわめて杜撰でご都合主義的なアプローチの仕方です。最近の日本の学者も韓流杜撰さに汚染されてしまっています。
確かに日本書紀には、高句麗や百済や新羅の僧や学者などが日本にやってきて、朝鮮半島発祥ではない、中国文化を間接的に伝えていることもしばしば語られていますし、朝鮮半島には日本の直轄地任那もあり、地理的な位置からしても、古代においても朝鮮半島と日本との間に交流のあったことは事実だと思います。倭国も度々、朝鮮半島を襲撃しています。ただ、当時の日本の古代史を見る場合は、魏志倭人伝などを含む中国正史も同時に見ることは絶対不可欠ですが、韓流史観信奉者たちは、韓流史観には邪魔でしかない中国正史はほぼ無視しています。
とはいえ日本書紀には、中国正史には登場する超有名な日本の王(親魏倭王)である卑弥呼は登場しませんし倭の五王と称される王もそのものとしては登場しません。卑弥呼や五王を、日本書紀に登場する天皇に比定する説もあるようですが、両者に齟齬のあるのは事実です。これらの齟齬は、大和王朝成立以前の歴史を、表面上消し去ろうとしたことに起因するものだと思われます。神武天皇の東征を経て、近畿に大和朝廷が成立する以前には、日本の政治的権力は九州にあったわけですが、各地で分立する形態であったとはいえ、九州王朝はいずれも、中国と冊封的関係下で交流を続けていました。
朝貢使派遣時期が確定できるものは、前号広がる韓流史観で紹介しましたようにそう多くはないものの、中国正史には倭国からの使いが頻々と送られてきていたことが記されています。一つ付け加えますが、神功皇后紀の終わり近く六十六年ー266年に「倭の女王が魏を滅ぼした西晋の武帝に貢献した」ことが一行挟まれています。これは新しい皇帝への朝貢??? 大和と倭国の関係は???と謎は深まります。
卑弥呼は239年に魏に遣いを送り、親魏倭王の称号とともに、銅鏡100枚のほか、数々の宝物を皇帝から下賜されていますが、魏が倒され、王朝が変わるや即座に朝貢使を送るとは、その外交能力の高さには驚愕の一語。神功皇后を卑弥呼に比定する説も有力ですが、この一行は両者が別人であることを示唆したものではないか。とすると、神功皇后治世下の大和朝廷と倭国との関係は???
謎を孕みつつも、大和朝廷成立以前にすでに、これらの九州王朝を介して、漢字も含めて中国からの文明、文化の移入はかなり進んでいたことは紛れもない事実です。物証(漢倭奴国王の金印)によって確定できる最古の日中交流は57年です。当然のことながら、この金印下賜以前から日中交流はあったはずです。1世紀に成立したという漢書にも、倭が定期的に朝貢してくることが記されています。400年代には倭国の五王が継続して中国に朝貢使を送っていますが、この王の中には、非常に名文の上表文を中国皇帝に献呈した例(武王)もあるように、倭国は中国との直接的な交流を何百年もの長きにわたって続けています。
しかし記紀にはこうした記述は登場しません。なぜなのかは素人には判断は困難ですが、九州王朝を征服しつつ、統一国家を樹立した大和朝廷としては、中国の先進文明、文化をこれらの九州王朝から受け継いだことにはしたくない。かといって、中国皇帝の冊封下にあった九州王朝を征服した後すぐに、大和朝廷が中国に朝貢することは不可能である。
そこで、間接的に中国文明の移入ルートとして百済や新羅や高句麗などの朝鮮半島の国々を手に入れたのではないか。倭国もかなり早くから朝鮮半島への進出(侵略)を繰り返してきましたが、神功皇后の三韓征伐は、それを象徴的に描いたものではないかと思われます。神功皇后が遠征の筆頭にあげた新羅を「宝の国」と称したその財宝の中身は、金銀などの物質的なものではなく、朝鮮半島王朝にもたらされた中国文明、当時の先端的な文明・文化を象徴的に表現したものではなかったかとも思われます。
神功皇后と仲哀天皇の皇子である応神天皇によって、王仁の来朝が実現し、儒教や千字文(漢字)がもたらされたとしているのも、神功皇后が三韓征伐によって手に入れようとした、その「財宝」の中身を物語るものだと思われます。
王仁の来日と千字文成立年代にはかなりずれがあるとのことで、王仁が実在した人物であったのかについては疑問視する声もありますが、こうした齟齬を含みながらの漢字の伝来由来話も、漢字の伝来は大和朝廷下で実現したことを強調した結果だと思われます。応神天皇は大和朝廷の基礎を築いた天皇だといわれていますので、中国文明・文化を象徴する漢字や儒教の伝来も、応神天皇の手によってなされたという創作は不可避であったのではないかと思います。しかし中国直とは書けないので、その代替地として、百済が登場したのではないか。
もちろん、実際に朝鮮各王朝からも日本に人や物も伝わったのも事実ですが、それ以上に、大和朝廷に服属した九州王朝の人々を介した移入の方がはるかに大きかったのではないかとも思われます。しかしその事実は徹底して隠蔽された。
漢文体で書かれた日本書紀は、その能力を持つ日本人は乏しかったので、漢文に長じていた百済人によって書かれたという説がかなり有力視されています。しかし日本書紀の内容は、漢文の書記能力だけでは書くことは不可能なものが大半を占めています。日本語そのものを熟知している必要があるのはもとより、当時の日本の事情や風習などを熟知していなければ書けなかったはずです。では誰が書いたのか。大和朝廷に服属した倭国の中には漢文(中国語)に長じた人もかなりいたはずですので、彼らがその任に当たったのではないか。
ただ古代史に関しては、知識の乏しい素人が書くにはさまざまなためらいが生じます。最大のためらいは、史実にはない間違ったことを書いているのではないかという心配です。これ以上深入りするには余りにも知識不足ですが、わたしが感じる最大の疑問は、大和朝廷以前に、奴国や邪馬台国などの九州王朝が何百年にも渡る長い年月、直接中国と、朝貢という形であれ交流を続けてきた、しかもかなり緊密な関係にあったにも関わらず、この時期の日中交流による直接的な中国文化摂取が、現代においてはほとんど無視されているのはなぜなのかということです。
邪馬台国に関しては九州か関西かの決着はついていないものの、福岡の糸島市(旧前原市)で発見された平原古墳の副葬品の豪華さは、数ある古墳の中でも他に類を見ないものであることは、誰もが認めるところです。被葬者は卑弥呼だという説もありますが、弊社から『平原弥生古墳 大日孁貴(注・おおひるめのむち・・・太陽の妻)の墓』(在庫切れ)を出された故原田大六氏は、その副題にあるように、被葬者は天照大神であるとされていました。
被葬者は誰かはすぐには決定しがたいものの、非常に高貴で、当時の日本列島にあっては最高の地位にあられた方であるのは間違いないはずです。副葬品はそれほど豪華なのですが、国内最大規模の銅鏡5枚を含む銅鏡40面(当初39面と発表されていましたが、その後40面あったことが判明)も出土しましたが、この中には、漢の宮廷直属の窯で作成されたことを記した銅鏡が20面も含まれていたという。また、漢の時代の高貴な女性がつけていた「耳とう」という耳飾りも出土していますが、これも日本で唯一だという。副葬品の時代からしても、またその豪華さからしても、親魏倭王と呼ばれた卑弥呼よりもさらに高位の、さらに古い古い時代の人物、最高神である天照大神であるようにも思われてくるほどです。
平原古墳の被葬者が天照大神(当然のことながら実在する人物であったという解釈)であるとすると、卑弥呼・邪馬台国は関西にあったという説とも両立しますので、日本の古代史をめぐる大きな謎が解かれるとともに、現在にまで至る日本史そのものの定説を根底から覆す歴史的大事件、大発見となりますが、目下の日本は自国の歴史探究よりも、韓流史観流布に全身全霊を捧げている始末です。
この古墳の豪華さは格別ですが、この古墳一つとってみても、九州王朝が、すでに中国の漢(紀元前202~8)と親密な関係にあったことは明らかです。また弥生時代の他の甕棺からも、特に九州北部地方からは多数の前漢鏡や後漢鏡も出土しています。その一例飯塚市博物館、福岡県春日市にある、奴国の中心地であったと言われている須玖岡本遺跡(出土品の写真の一覧が見つかりませんので、文章解説)からも前漢鏡が30面出土しています。他にも多数ありますし、九州以外の地からも出土しています。こうした出土品からも、九州王朝を中心に日本列島各地で中国と直接交流が続いていたことは明らかですが、なぜ専門家は、こうした重要な遺跡には目を向けず、韓流史観に汚染されてしまうのか、理解不能です。
韓流史観が主張するように、青銅器を日本に輸出していたのであれば、日本で見つかった窯跡や工房跡よりもはるかに大規模な遺跡が韓国に存在するはずですが、彼らの主張を裏付けるような、青銅器を製造した大規模な窯跡や工房跡は韓国にあるのでしょうか。ないはずです。しかし韓流史観の汚染は凄まじく、青銅器はほとんどすべて朝鮮半島からもたらされたとの説が、国公立の博物館にも拡大しつつあります。平原古墳を擁する糸島市の博物館ですら、韓流史観に汚染されています。九国博ですら汚染されていますので、ある意味当然かもしれませんが。なぜここまでひどいのか。最大の理由は、韓流史観でなければ、研究費がもらえないからではないか。
9月に訪問した九国博の交流史展示室には、神戸市と福岡市(福岡県だったか)との青銅器に関する合同研究報告展示もなされていました。どんな内容だったのかはほとんど記憶にありませんが、銅鐸に描かれた文様の比較であったように思います。この研究には、おそらく文化庁から予算が出たのだろうと思いますが、青銅器ならもっとやるべき研究課題は山とあるはずです。そもそも青銅器研究で、なぜ神戸市と福岡が協同研究するのか、その必然性は全く不明。青銅器研究は出土数も含めてその分布も重要な意味をもっていますので、全国規模でなされるべきもののはず。なぜこの2地域に限定して研究費を助成したのか。
文化庁も含めて、役所は予算配分の実質的な権限をもっていますので、何か特別の権力を持っているかのような錯覚を抱き、予算申請書類を審査しているのでしょうが、選択的予算の導入は、学問研究を貧相化するばかり。その一方で、国公立大学から国文学科や日本史文学学科などを含む文学部を廃止したこととも相まって、日本の歴史を韓国にハイジャックされる韓流史観の蔓延を招いています。
他国に自国の歴史をハイジャックされる国は世界広しといえども日本以外にはありませんし、他国の歴史をハイジャックし、あたかも自国の歴史のごとく改竄する国も韓国以外には存在しません。韓国は自国の歴史単独では世界に披瀝する内容には乏しいので日本の歴史をハイジャックするのですが、日本の歴史とは日本の国そのもののハイジャックに他なりません。
しかし政治家も専門家も、震えがくるほどのこの異常事態も異常とは考えておらず、専門家は嬉々として韓流史観の公宣流布に励んでいます。外国人教師の増加を要求する大学の世界ランキングなどは無視して、韓国人教授は一切採用しない。研究機関や博物館、美術館なども韓国人や韓国の大学に留学した学生は採用しない。韓国の大学は文系はもとより理系も歪んでいます。
東大の工学部大学院を卒業したソウル大学の教授が、授業の中で、日本人が発明、発見した学説や理論を教えたところ、学生からは大ブーイングが起こり、授業にならないと嘆いていた話を読んだことがあります。思想信条には無関係に真理が確定する科学系の学問においてすら、韓国では反日史観、韓国絶対優位思想が最終決定権をもっているということです。韓国は先進国入りして長い年月が経っているにもかかわらず、自力で新しい事業の展開ができないのも当然ですね。
実は韓国最大の大企業サムスンですら、自国の学生にはほとんど期待していないらしい。サムスンはおそらく事務や管理部門は韓国人で固めているはずですが、技術系は海外シフトではないか。そしてサムスンは、優秀な人材を確保するために中国の大学などに提携を働きかけていたそうですが、実現したのかどうかは不明。
さらに手を伸ばして、サムスンはロシアの大学にまで直接進出し、いわゆる冠講座まで開設しています。ロシアはサムスンが最も必要としているIT,AIの基本能力であるプログラミング力では世界トップクラスにありますが、ロシアには実際の事業に活用する能力や経験は乏しい。ロシアは日本も含めて西側とは対立気味ですが、韓国にとってはまたとない環境下で、サムスンが進出。サムスンは、ロシアの大学への講座開設をどんどん拡大する方針だという。ロシアの学生なら優秀な上に、欧米の学生よりは給与水準も低いはず。
韓国人学生にとってサムスンに入るのは至難の業だというのも当然でした。サムスンは海外の優秀な人材を求めているのですから。そこで韓国政府は、サムスンからも求められず、就職難にあえぐ学生を日本企業に大量に送りこんできています。驚いたことには日本政府までもが、韓国学生の日本企業への斡旋に乗り出しているという。アホとしか言いようがありません。
こうしたニュースは日本のマスコミは報道しないので注意喚起も難しいですが、日本はいいように韓国に利用されています。しかも韓国人がロシアの理系部門に進出すると、ロシアの軍事技術も韓国に流出するのではないかと心配です。プーチン大統領が韓国勢の拡大を黙認するかどうかは分かりませんが、特に世界のトップクラスにあるロシアの気象兵器が韓国に渡るのではないかと心配です。