2018-10-12「葦の葉ブログ2nd」より転載
2ヶ月余り前のこと、久々に九州国立博物館(九国博)に行ったのですが、余りにも異常すぎる日本の歴史改竄展示に遭遇し、大変なショックを受けました。お目当ての展示は、「京都・仁和寺観音堂 千手観音像とその仲間たち」だったのですが、ついでに観覧した常設の文化交流展示室で見た、中世から江戸期にかけての日本と海外との交流、交易に関する展示と、遣唐使に関する展示において、中学校の歴史教科書にすら書いてあるほどのごく常識的な史実までをも完全に無視した、信じがたい改竄がなされていました。
しかもその上、韓国の古墳壁画に関する新たな捏造展示までなされている始末。わたしはこれまでも、韓流史観に丸呑みなされたような九国博の展示に関して繰り返し批判してきましたが、今回の改竄は、これまでの改竄をさらにレベルアップしたもので、さすがのわたしも、ここまでの改竄を許している背後の闇の大きさに震えを覚えたほどでした。
メイン展示の千手観音を中心にした33体の諸像を安置した、仁和寺観音堂の須弥壇を再現した展示はほんとうにすばらしく、もう二度とこれほどの展示にお目にかかることはないだろうなあと、心底感動いたしました。この感動を一人でも多く味わってもらいたいと思う一方、韓流史観に丸呑みされた九国博の宣伝には手を貸したくはないという思いも強く、眼前の緊急テーマを優先的に取り上げ、会期中に本展示をご紹介せぬまま、展覧会も終わってしまいました。
しかし九国博の余りにも異常な韓流史観汚染については看過することはできず、その批判は書かねばとの思いは強まるばかり。とはいえ、余りの韓流史観丸呑み展示の有様から、これは九国博の責任においてなされたものだろうか、という疑惑がふっと湧いてきました。それほひどい改竄展示だったわけです。
やはり疑惑のとおり、アジア交流史の展示は、九国博の直接の担当ではなく、九国博内に設置されている福岡県立アジア文化交流センターの担当だということが、同センターのHPに書かれていました。一部を以下に引用。
「九州国立博物館は、国の独立行政法人と県とが共同で運営する初めての国立博物館です。福岡県は、主にアジアとの学術・文化交流や館内の展示に関すること、館の広報に関することなどを担当しており、これら福岡県が受け持つ部分の組織を、「アジア文化交流センター」と呼んでいます。」
九国博の入り口には、「福岡県立アジア文化交流センター」のプレートも並んでおり、県の交流センターも併設されているのは知っていましたが、先ほど、上記HPを見るまでは、九国博の展示については、全て九国博の責任においてなされているとばかり信じて疑いませんでした。福岡県の文化担当部署には、博物館展示の内容まで検討、吟味するだけの能力を有する専門家がいるとは思わなかったからです。
しかし文化交流の展示は県の担当で決めていたらしい。九国博は完全にノータッチということなのかどうか、この辺は不明。外部からは一体化しているようにも見えますが、わたしがこれまで繰り返し批判してきた九国博の韓流史観従属は、九国博だけではなく、まずは福岡県の文化行政担当に向ける必要があったことに今回初めて気づかされた次第です。タイトルの「九国博」に「」を付けたのも、以上のような事情を踏まえたものです。
改竄はまず、遣唐使に関する展示です。「交流展示室」とありますが、大きな九国博4階の全フロアを使った、非常に広い展示室となっています。その片隅に遣唐使展示コーナーがあるのですが、この展示に異変が生じたことは、これまでも何回か紹介しております。遣唐使が唐に運んだ朝貢品と唐から日本に持ち帰った品々が実物模型で示されているのですが、当初は、帰りの船には、唐織り物や琵琶などの他に、巻物状の書物が山積みされていました。
遣唐使のみならず、中国に渡った日本人留学生などが中国から多数の書物を持ち帰ったことは、日中の史実に記されていることであり、教科書にも書かれている明白な史実ですが、2,3年前に、山積みされていた船から書物が全て撤去されてしまい、船は空っぽのまま展示されるという、異様な光景がずっと続いていました。ここまでは、すでにご紹介しておりましたが、2ヶ月余り前に行ったところ、ついに船も撤去されてしまっていました。
そして代わりに、以前展示されていた巻物状の書物の10分の1ぐらいの細い細い巻きの書物が5本だけ、棚に並んでいました。しかもその書物は経典との表示があり、遣唐使が日本に持ち帰ったのは、ごくごくわずかな経典だけであったとの印象操作がなされていました。
なぜこれが韓流史観だと断定するのかとの疑問も出るかもしれませんが、韓国は、現代においては学術面も含め、あらゆる領域において、日本が韓国に圧倒しているという眼前する事実は変えたくても変えようがありませんので、直接見聞きは不能ゆえに改竄可能な、近代以前までの歴史においては、韓国が日本を圧倒していた、日本は韓国が作ったという歴史の捏造に血道をあげています。
その改竄は古代にまで遡り、日本が直接中国から学んだという事実は極力矮小化ないしは消去しようという工作が執拗になされてきました。なぜ真備町が襲われたのかでもご紹介しましたが、細川元総理が理事長を務める永青文庫が所蔵する漢籍4175冊を中国に寄贈したというニュースが、マスコミで報道されなかったのも、そうした動きに連動したものです。
韓国・歴代の朝鮮王朝は中国から文化を移入したとはいえ、非常に狭小。日本のように多岐、多彩、多方面に渡っての文化摂取はなされておらず、従って、中国から取り入れた書物もごくわずか。朝鮮王朝創作の書物もごくごくわずか。日本が朝鮮から書物を移入したとの史実はほとんどありません。自国で出版した書物の数も、日本は韓国とは比較にならないほどに大量です。
にもかかわらず、韓国は日本の文化は韓国が作ったとの捏造韓流史観を日本に必至に浸透させようと、執拗な工作を続けてきました。日本の国公立大学から文学部国文科や史学科(日本史・東洋史・西洋史)が廃止され、それぞれの専門研究体制が破壊されたことと、国際化と称して日本の大学に韓国人教授が急増したこととも相まって、韓国の日本史改竄工作は一気に功を奏しはじめました。
その工作は、日本文化形成に果たした遣唐使の働きまでをもほとんど消去するほどにまで進んでいることを、2ヶ月余り前に見た、九国博の遣唐使展示コーナーのさらなる改竄が示していたわけです。わたしは、体が震えるほどのショックを受けました。なぜこれほどまでの改竄が許されているのかと。
しかも改竄はこれだけではありませんでした。室町末期から江戸時代初期にかけての南蛮貿易や東南アジアとの交流に関する展示でも、露骨な改竄がなされていました。1543年にポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来して以来、当時世界を二分して支配していたポルトガル、スペインを相手に日本では南蛮貿易が始まったというのは、中学レベルの歴史の常識です。以前の九国博の「交流史展示室」でも、この史実を証明する絵画資料がいくつも展示されていましたが、2ヶ月余り前に目にした展示では、以前の資料は全て撤去され(まさか廃棄されたりはしていなでしょうね。)、南蛮貿易、東南アジアなどとの貿易は、徳川幕府成立後に実施された朱印船貿易としてなされたもので、鎖国後は禁止され、ごく短い期間になされた貿易だとの展示に変わっていました。
日本が中国のみならず、東南アジアや同地域を植民地にしていたポルトガルやスペインとの貿易も盛んに行っていたという史実を消そうという魂胆丸出しの展示変えです。この展示室には、朝鮮通信使が最先端の文化を日本にもたらしたとの展示がなされていましたが、わたしが批判したからのか、単なる展示替えなのか、この展示は今は撤去されています。しかし、日本史の画期を示す史実が露骨に改竄されていることには、体が震えるほどの衝撃を受けています。
実は南蛮船の日本渡来は通説よりはさらに古く、1409年には南蛮船が若狭小浜に来着し、領主に象や孔雀を献上したとの記録が残っており、種子島への鉄砲伝来以前の室町末期から小規模ながら始まっています。室町幕府が倒れ、群雄割拠の戦国時代に入ると、各地の有力大名たちは、南蛮(ポルトガルやスペイン)の力を借りて覇権拡大を目指そうと、競って南蛮貿易に乗り出しました。キリスト教受容はその方便、手段ににすぎませんが、その動きは、3代将軍家光の鎖国令が発布されるまで、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと受け継がれます。
とはいえ、信長、秀吉、家康の対南蛮姿勢はそれぞれに異なっています。中でも、日本の植民地化を狙うスペインに対して、武力でもって対抗しようとした秀吉の動きは、なぜか教科書では全く触れられておらず、その意味でも、現代の我々にとっては驚きの一語と表現するしかないほどに特異です。しかし、当時はポルトガル・スペインが世界制覇を進めていた大航海時代であったという世界史の中で見るならば、特異ではなく、日本の統治者としての責任ある対応であったということが分かります。平川新著『戦国時代と大航海時代―秀吉・家康・政宗』(中公新書)には、世界史的動きの中で、秀吉から家康、政宗に至る、一連の対南蛮政策が史実に基づいて分析されています。しかも本書は非常に面白い。(参照:平川新氏インタビュー)
平川氏によると、秀吉も家康も政宗も南蛮との貿易は熱望していたという。秀吉は南蛮貿易は望みながらも、スペインの日本征服の野望を知ると、逆に武力で威嚇し、当時世界最強のスペインの野望を打ち砕こうとしたという。家康も、禁教令発令後も伊達政宗による慶長遣欧使節の派遣(1613年)を容認したのも、南蛮貿易の可能性を探るためであったという。なぜ政宗の遣欧使節派遣が可能であったのか、その疑問は氷解。
興味深いことには、同書によると、秀吉も家康もキリスト教禁教に際し、日本は「神国である」とスペイン国王に表明したという。当然のこととはいえ、「仏教国」とは言わずに「神国」と表明したことに注目したい。関白にせよ将軍にせよ、政治的な実権は持たない、いわば象徴的な存在である天皇によってその権威を保証されていたわけです。秀吉と家康が共に「日本は神国である」と表明したことは、文字通り、宗教的な意味での神国であるとの対外的な宣言であると同時に、自らが拠って立つ日本の政治体制、国体をもアピールしたものだと思われます。
ところで、韓流史観に汚染されている昨今の主流派説では、家康は開府後、最新の文化摂取のために朝鮮王朝との国交を回復したことになっていますが、家康は、朝鮮だけではなく、明国や琉球との国交回復も図ったという。朝鮮とは1609年に講和条約を結び、幕府の代替わりに新将軍を祝するために、通信使が派遣されるようになりました。琉球は1609年に島津藩に征服されたこともあり、慶賀使が派遣されるようになりました。明国とは国交回復には至らなかったものの、明国商人との貿易は認められたという。さらにタイ、カンボジア、ベトナムなどの東南アジア諸国とも1605年に親書を交わし、通商関係を積極的に展開したという。
のみならず家康は、ヨーロッパとの関係改善にも積極的に取り組み、堺の商人やキリシタン宣教師などを使者としてスペイン総督府のあるマニラに送り、通商交渉に力を入れていたという。また、新興勢力であるオランダやイギリスに対しても交易を求め、それぞれの国王に宛てて親書を送ったという。それから間もなく、1605年には平戸にオランダ商館が開設され、イギリスも平戸に商館を開設したという。1613年に政宗が派遣した遣欧使節は、スペインの植民地であったメキシコとの交易実現が最大の目的だったそうですが、キリスト教の布教は認めず、貿易だけを求めた政宗と家康の要求は拒否され、メキシコとの交易は実現されませんでした。
以上のように家康は、天下統一後、中国や朝鮮のみならず、東南アジアやヨーロッパ諸国を相手にした、全方位外交を展開し、貿易相手国としては、東南アジアやヨーロッパ諸国との関係強化に力を注いでいました。しかし昨今の日本では、江戸幕府は、20数年に一度の代替わりに、新将軍祝賀使として派遣される朝鮮通信使から最新の文化を受容したとの珍説がまかり通っています。20数年に一度の派遣で、最新の文化!? まず物理的にありえません。そもそも当時の朝鮮には、世界最新の文化は存在しません。捏造も甚だしい。
そこで力が入るのが、さらに古い、古い古代での捏造です。この後も捏造展示が続くのですが、余りに長くなりすぎますので、続きは次回に回すことにいたします。
本号を閉じるに当たって、東南アジア関連で付け加えますと、『戦国時代と大航海時代』には、「一四世紀にはアユタヤ(現在のタイ)に日本人町ができていた。一六世紀には一〇〇〇人から一五〇〇人がいたという。こうした日本人町は東南アジア各地にあった。規模は小さいが、ホイアン(ベトナム)、プノンペン(カンボジア)、マニラ(フィリピン)などにもあった。」と、江戸時代のはるか昔から、日本人は東南アジア各地にも進出していたことが書かれています。
こうした日本人の中には、奴隷として売られた日本人がいたことも書かれていますが、室町幕府の弱体化、戦国時代の混乱期、日本国としての統治能力が著しく低下した時期には、日本人を奴隷として売り飛ばす宣教師たちもいたという。日本人奴隷は、明や高麗にも売られていたという。秀吉はスペイン国王宛の書状に、これら日本人奴隷の解放を要求するとともに、解放しないのであれば、金を出して買い戻す意思をも記していたことも紹介されています。このエピソードは、秀吉の日本国統治者としての比類なき矜持の高さを物語っており、感動すら覚えます。
本テーマ前編の終わりに、展示はとっくの昔に終わってしまいましたが、仁和寺観音堂の須弥壇についてご紹介させていただきます。この観音堂の内部は普段は非公開だそうですが、平成24年から半解体修理が実施され、30年度中には終了予定のこの期間、非公開の仏像さまたちが公開されたということです。時間の経った今では、何はさておき、二度とお目にかかれない観音さまや仏像、神像さまたちを、一人でも多くの方々にご覧いただくべく、ご紹介すべきだったと後悔しています。東京国立博物館でも公開(九国博の展覧会タイトルとは異なっています。)されたとのこと。
次回は古墳についても取り上げる予定ですが、九州有数の装飾古墳の特別見学会が相次いで開催されます。期限もありますので、見学会の日程を先にご紹介しておきます。
王塚古墳特別見学会 10月20日・21日
熊本県内装飾古墳一斉公開・秋 10月27日・28日・11月24日